1998年(平成10年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1998年(平成10年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

1998年(平成10年)の主要ニュース

1月|大蔵省接待汚職事件発覚


大蔵省の職員らが銀行職員から接待を受ける事件が発生した。
接待を受けた場所は新宿区歌舞伎町のノーパンしゃぶしゃぶ店であったため、大蔵省接待汚職事件は別名「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」とも呼ばれた。

第一勧業銀行が総会屋へ利益を供与していた事件について、以前より大蔵省は第一勧業銀行へ検査を行っていたがその甘さが指摘されていた。
疑惑を受けて東京地方検察庁は捜査を開始し、都市銀行や証券会社などから接待伝票などの証拠を押収した。

捜査が進み、日本道路公団の外債発行幹事証券会社の決定に際し道路公団理事が野村證券から贈賄を受け取ったこと、大蔵省検査官があさひ銀行・第一勧業銀行・三和銀行・北海道拓殖銀行から収賄を受け、検査日程を漏らしていたこと、日本銀行証券課長が日本興業銀行・三和銀行から収賄を受け機密情報を流出させたことなどが明らかとなった。

これらの接待事件や不祥事を受けて大蔵省は112人に対して処分を行い、官僚7人が逮捕・起訴され執行猶予付きの有罪判決が下される事態となった。
また大蔵省は銀行と証券会社から分離され金融監督庁が発足、大蔵省は財務省へと名称が変更される原因となったのである。

7月12日参議院議員通常選挙


1998年7月の参議院選挙では自民党が大敗し、橋本内閣が退陣し小渕内閣が誕生するきっかけとなった。

バブル崩壊後で企業や金融機関の倒産が相次ぎ、景気対策路線へ舵を切った橋本内閣であったが政策の混迷により支持率が低下していた。
改選数126に対し60議席台前半が予想されたが、選挙戦術の失敗もあり自民党の核と釘数は44と予想を大きく下回った。

選挙の責任をとり橋本内閣は退陣を決定、7月30日に小渕内閣が誕生することとなる。

7月25日和歌山毒物カレー事件発生


和歌山毒物カレー事件とは、夏祭りで出されるカレーライスに毒物が混入され、4人が死亡・63名が負傷した事件である。

夏祭りでカレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴え、病院へ搬送された患者のうち、10歳の男児・16歳の女子生徒・自治会の自治会長(64歳)と副会長(53歳)の4名が死亡した。
その後の警察庁の調べでカレーに亜ヒ酸が混入していたことが判明し、主婦の林真須美が逮捕された。

裁判では林被告に動機が見られないものの、ヒ素が被告の自宅から検出されたことや、被告人の頭皮から高濃度のヒ素が検出されたことから、被告が犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に証明されているとされ、死刑が確定した。

本事件は直接的な証拠が存在せず、また動機も存在しないことから冤罪の可能性がある事件としても有名であり、識者からはこのような状態で死刑判決が確定したことに対し疑問を呈する意見も出ている。

2020年現在林真須美は死刑囚として大阪拘置所に収監されているが、息子がツイッターで林死刑囚の手紙を公開するなど、依然として無実を主張し続けている。

10月23日日本長期信用銀行がバブル崩壊のあおりを受け経営破綻


日本長期信用銀行とは、吉田内閣による「金融機関の長短分離政策」に沿って設立された長期資金の安定供給を目的に設立された長期信用銀行である。

日本の高度経済成長期を支えた日本長期信用銀行であったが、1988年に不動産関連融資を拡大する新たな経営計画を開始した。
バブル末期には不動産や住宅金融専門商社・サービス会社を中心に貸し出しを増加させたが、バブル崩壊とともにこの戦略が仇となり、多額の不良債権を抱え込む結果となった

1991年には回収が不可能となった不良債権が2兆4千億円を超え、1998年に国による救済を受けるため国有化された。
その段階で債務超過額は3400億円とされていたが、調査の結果2兆円を超える債務超過が発見され、8兆円近くの公的資金が注入されることとなった。

1999年に東京地検特捜部は粉飾決算容疑で旧経営陣3名を起訴している。

日本長期信用銀行は国有化されたのち、現在の新生銀行となっている

12月1|金融ビッグバンが施行


金融ビッグバンとは、日本の金融システムをニューヨークやロンドンと同様の地位まで押し上げ、日本経済を再生させる目的で行われた金融制度改革である。

金融ビッグバン施行前の金融機関は自由主義経済とはかけ離れた「護送船団方式」と呼ばれ、国から保護された立場で経営を行っていた。
しかし金融ビッグバンにより、各金融機関は自由競争の元、投資家の奪い合いを行うこととなる。

金融ビッグバンが施行された結果、株式売買手数料の自由化による手数料値下げ証券会社の免許制から登録制への移行投資商品の多様化などが行われるようになった。
その後ネット証券が誕生し、売買手数料の値下げ競争が激化し、現在では当たり前となっているオンライントレードが投資家へ浸透したのも、金融ビッグバンの結果と言える。

当時、日本の個人金融資産は1200兆円にものぼる一方で、将来やってくる高齢化社会に対する社会不安もささやかれていた。
個人金融資産を効率的に運用することで、高齢化社会へ向けて自分の老後資金は自分で蓄えることが求められており、「貯蓄から投資へ」というメッセージを国が国民に対して贈ったものとも考えられている。

12月2日|郵便番号の7桁化が完了する


1998年になるまで郵便番号は5桁であったが、1998年2月より7桁化が進み、同年12月2日に全ての郵便番号が7桁化された。

郵便番号が7桁化された理由は、郵便物を効率的に配送できるようにするためである。
郵便番号が7桁になることにより、市区町村までは郵便番号だけで特定することが可能となった。

12月14日|日本債券信用銀行破綻


日本債券信用銀行は1957年に日本不動産銀行として設立され、1977年に日本債券信用銀行に名称変更されたが、1998年12月に経営破綻した

日本債券信用銀行は高度経済成長とともに急拡大したが、1980年代のバブル期には積極的に融資を拡大し、相手を問わず無担保であっても融資を行った。
しかしバブル崩壊により不良債権が巨額化し、日本債券信用銀行は不良債権をペーパーカンパニーに付け替える「飛ばし」行為で粉飾決算を行うようになる。

1997年には600億円の公的資金が注入され、1998年10月には国有化された。
2000年になり、日本債券信用銀行はオリックスやソフトバンクからなる投資グループへ売却され、2001年には「あおぞら銀行」へ社名を変更し現在に至っている。

旧経営陣は粉飾決算による証券取引法違反容疑で起訴されたが、2011年に無罪が確定している。

1998年(平成10年)の文化・芸能ニュース

5月2日元XJAPANのhideが急死


XJAPANは日本を代表するヴィジュアル系ロックバンドであったが、1997年大晦日に解散、1998年からは元メンバーが個別にソロ活動を行っていた。
中でもhideはhide with Spread Beaver名義で積極的にメディア展開し、1998年1月に発売されたROCKET DIVEは69万枚を売り上げ、アーティストとして充実した活動を行っていた。

しかし1998年5月1日にTV番組の収録を終え、打ち上げで泥酔したhideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見され、病院に搬送されたが死亡が確認された

遺書がなかったことから、事故か自殺かは不明ある。
hideの弟でありマネージャーの裕士は、hideが肩こりと偏頭痛に悩んでおり、整骨医が行う首の牽引を行っていたが、酔った状態であったため事故で死に至ったと説明している。

翌日からワイドショーではhideの死が大きく報道され、hideが安置された築地本願寺には5万人を超えるファンが集まり、後追い自殺を行う者が全国で相次いだ。
hideの死は社会に大きすぎる影響を与えたため、警視庁の要請を受けたXJAPANは記者会見を開き、自殺を思いとどまるよう訴えた。

11月13日石橋貴明と鈴木保奈美が結婚


石橋貴明と鈴木保奈美という、ビッグカップルが誕生した

石橋は1988年に元モデルと結婚し、1女(石橋穂乃香)をもうけていたが、1998年に離婚していた。
一方の鈴木は1994年にF1解説者の井川一仁と結婚していたが、1997年に離婚していた。

二人は1998年に結婚を発表するが、鈴木はすでに妊娠中であったため、W不倫の末に子供が出来たのではないかと世間を騒がせた

石橋と鈴木はその後3人の女の子に恵まれ(石橋は4人子供がいるが全て女)ている。

1998年(平成10年)の事件

7月2日|富士銀行行員顧客殺人事件発生

ぽこあぽこより引用

富士銀行行員顧客殺人事件とは、現みずほ銀行の行員が顧客から預かった2500万円を不正に他の運送業者へ融資し、発覚を恐れて顧客を殺害した事件である。

行員は顧客である老夫婦から定期預金として2500万円を預かったが、その金を運送業者へ融資し焦げ付いてしまう。
行員は転勤が決定したため、不正融資および焦げ付きの発覚を恐れ、夫人を絞殺した上で盲目の夫も絞殺した。

銀行は遺族に多額の金品を支払い調停を成立させたため、行員には死刑ではなく無期懲役の刑が下された。

銀行員が顧客を殺害するという前代未聞の事件であり、犯人がバブル期に採用されていたため、質の悪い学生を一斉採用した副作用であると指摘する声もあがった。

8月15日|関西医科大学研修医過労事件発生


関西医科大学研修医過労事件とは、関西医科大学で研修医が過労死した事件である。
法定の週40時間に対し、研修医の勤務時間は最大で1週間114時間にものぼったが、大学側は奨学金名目で月6万円、当直1回1万円を支払っていただけであった。

当時の研修医は安い労働力との認識で酷使されている背景があり、健康保険や労働保険もない病院の方が多かった。

研修医の父親は社会保険労使であったこともあり、遺族は労災認定を申請し認定された。
また病院に対し訴訟を起こし、8400万円の支払いが命じられた。

本事件は研修医の制度改革に繋がり、研修医の労働環境改善のきっかけとなった。

11月2日|川崎協同病院事件が発生


川崎協同病院事件とは、医師が家族の同意を得て脳死状態の患者へ筋弛緩を投与し殺害した事件である。
脳死状態に対する尊厳死・安楽死や終末期医療のありかたについて問題が提起された事件でもある。

58歳の男性患者は気管支喘息から心肺停止に至り川崎協同病院へ搬送されたが、心臓の拍動は再開するも、意識は戻らなかった。
担当医師は家族に脳死状態であると説明し、11月16日に患者の家族が集まる病室で患者が死亡するのを承知の上、気道確保のため挿管されていたチューブを抜いた。
だが患者が予想に反し苦悶したため、医師は筋弛緩剤を投与し患者は心肺停止となり死亡した。

病院は3年半経過後の2002年4月に内部告発を受け事件を公表し、マスコミで大きく報じられた。

検察は殺人罪で医師を起訴し、末期治療の安楽死・治療中止をめぐり最高裁の判断が注目されたが、最高裁判決では懲役1年6カ月執行猶予3年が下された。
医師の行為は法律上許される治療中止にはあたらなかったとの判決になったが、その理由としては次の2点があげられている。

  • 患者は発症から2週間の段階であったため、回復可能性や余命について十分な判断を下せる状況ではなかった
  • 患者の気管内チューブ抜管は、患者家族の要請により行われたが、被害者の病状について十分な情報が与えられておらず、抜管が患者の推定的意思に基づくものでもなかった

11月24日|伊勢市女性記者行方不明事件発生


伊勢市女性記者行方不明事件ととは、三重県で女性記者が消息を絶ち、最後に接触した男性に容疑がかけられたが無罪が確定した事件
取り調べで津署が容疑者に対して、違法な取り調べを行っていたことも発覚している。

女性記者は取材のため、東紀州のことに詳しい男性を三重県尾鷲市役所に紹介されたが、行方不明当日はその男性と会ったのを最後に消息を絶った。
男性は女性の家族に対し「無罪が確定すればすべてを話す」としていたが、無罪判決後も家族に対して何も語っておらず、家族は男性に対する疑念を深めている。

2020年現在、行方不明の女性記者は発見されておらず未解決事件となっている。

1998年(平成10年)のスポーツ

2月7日|長野冬季オリンピック開幕


日本は金4、銀1、銅3

4月4日|アントニオ猪木東京ドームで引退試合


「燃える闘魂」のキャッチフレーズで愛され、日本プロレス界の一時代を築いたアントニオ猪木が、東京ドームで引退試合を行った。

引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」内で行われた引退試合の相手は、小川直也らを倒して勝ち上がったドン・フライだった。
猪木はグラウンドコブラツイストで勝利し、引退試合を見事勝利で飾った。

引退時のスピーチで披露した「この道を行けばどうなるものか~」の詩が話題となり、この場面は今なお語り継がれている。
引退後アントニオ猪木は、イベントのプロデューサーや実業家、政治家として活動している。

6月14日|FIFAワールドカップで日本代表が初試合


日本サッカーにとって初の大舞台となる、FIFAワールドカップの日本代表初試合が行われたのが1998年6月14日あった。
開催地フランスには多くの日本人サポーターが駆け付けた。

初戦の相手は優勝候補の一角アルゼンチンであったが、日本は開始から何度かゴールに迫った。
しかし、徐々にアルゼンチンにペースを握られると、後半にゴールを決められ0-1で敗れた。

その後はクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)と3戦全敗で大会を去るも、ジャマイカ戦で中山雅史が大会初ゴールを決めるなど、日本では大いな盛り上がりを見せた。

このフランスワールドカップ以降日本は全てのワールドカップに出場しており、世界の舞台で戦い続けている。

6月27日|大相撲若乃花が横綱へ昇進

時事通信より引用

大相撲の大関・若乃花が横綱昇進を果たした。
大関29場所目での横綱昇進は、当時史上2番目のスロー昇進であった。

1997年に右大腿二頭筋を断裂したことで絶不調となり、一度は引退を囁かれるほどであったが、見事な復活劇を果たしての昇進だった。
これにより、弟・貴乃花との史上初となる兄弟横綱が誕生し、若貴時代が円熟期を迎える。

若乃花は横綱昇進後、怪我により振るわない時期も続き、2000年に現役を引退した。

7月24日|中田英寿がセリエA・ペルージャへ移籍


当時ベルマーレ平塚でプレーしていた中田英寿が、セリエA・ペルージャへ移籍した。

直前のフランスワールドカップで日本の司令塔として全試合に出場していた中田は、そのプレーが注目され海外の12クラブから獲得を望まれていた。
アーセナルやユベントスといった世界的ビッグクラブからのオファーもあったが、出場機会を望んだ中田はペルージャを選択した。

中田にとって海外挑戦への第一歩となるデビュー戦は、ユベントスから2得点を奪う衝撃的なものだった。
さらにシーズン10得点を挙げるなど、最初のシーズンからインパクトを残すことに成功した。

この後の1999-2000シーズンには、パルマの活躍が認められセリエAの強豪ローマに移籍することとなる。

8月22日|夏の甲子園で横浜高校の松坂大輔投手が、決勝戦でのノーヒットノーランを達成


夏の甲子園で、横浜高校のエース・松坂大輔が決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを達成した。

59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーランであった。
なお松坂は準々決勝でPL学園相手に延長17回、250球を投げており、準決勝にも1イニング登板している。

この大会では鹿児島実業高校の杉内俊哉もノーヒットノーランを達成しており、史上稀に見る大会となった。

その年のドラフト会議では日本ハムファイターズ、横浜ベイスターズ、西武ライオンズの3球団から1位指名を受けるも、交渉権を勝ち取った西武ライオンズに入団した。

9月8日|メジャーリーグ・マーク・マグワイヤが本塁打の年間最多記録を更新

メジャーリーグのマーク・マグワイヤが、1シーズン70本の本塁打を記録し、年間最多本塁打記録を更新した。
当時の所属チームはセントルイス・カージナルスである。

この年は、最後までサミー・ソーサとし烈な本塁打王争いを繰り広げたことも話題になった。
なお、マグワイヤとソーサの両名とも、この年の「スポーツマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。

70号本塁打のボールは翌年のオークションにて3,054,000ドル(約3億円)で落札されており、オークションにおける史上最も高価な野球関連の取引としてギネス記録に認定されている。

2010年、マグワイアはMLBでは禁止されていなかったが問題視されていたステロイド(筋肉増強剤)を使用したドーピングを行っていたことを告白している。
このため確実視されていた野球殿堂入りは叶わず、投票対象期間を終えて10年が経過したためマグワイアの殿堂入り資格は喪失してしまった。

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