2004年(平成16年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では2004年(平成16年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

目次

2004年(平成16年)の主要ニュース

1月19日|自衛隊をイラクへ派遣開始


2004年1月19日に陸上自衛隊の先遣隊がイラクに到着した
イラクへの自衛隊派遣は2003年3月に起こったイラク戦争に対して、イラク特措法に基づき人道復興支援活動と安全確保支援活動を活動の柱として行われた。

イラク特措法で自衛隊の活動は非戦闘地域に限定されていたが、今回のイラク派遣は「戦闘地域ではないか」と論議のある地区への派遣となった。
特にマスコミによって否定的な意見が大きく取り上げられたことで、国内で論争を巻き起こした。

主な否定的意見として、復興支援物資の輸送だけでなく多国籍軍の輸送も行っていることから戦闘目的の一部であること、これまでの自衛隊の海外派遣は国連平和維持活動(PKO)の下で行われていたが今回のイラク派遣は国連指揮下ではないことなどが挙げられた。

2004年1月から始まった派遣は2008年12月に派遣隊員約140人が帰国、翌2009年2月にイラク復興支援派遣撤収業務隊が帰国し、すべての任務が終了している。

5月7日|年金未納問題で、福田康夫官房長官が辞任


年金未納問題とは、2004年に政治家の公的年金保険料の未納が相次いで発覚した問題で、その責任をとり小泉内閣の官房長官であった福田康夫が辞任した

20004年は年金制度改革が論議されている最中であり、国会議員は1986年以降強制加入となっていたが、それ以降未納がある閣僚が存在することが明らかとなった。
騒動の発端となったのは、社会保険庁のCMに起用された江角マキコが国民年金を未納していたことであった。

https://www.youtube.com/watch?v=9VQXaiwMRvc

その後小泉内閣の閣僚17人のうち7人が未納・未加入が発覚、年金未納問題を批判していた民主党代表の菅直人などにも未納・未加入が発覚する事態に発展した。
また議員の未納問題を厳しく批判していた筑紫哲也などのニュースキャスターもまた、年金を未納していたなどの事例も発生した。

与野党全体を巻き込んだ年金未納問題は、小泉内閣の福田康夫官房長官の引責辞任、次いで進退を問われた民主党の菅直人も党代表を辞任する事態となった。

またこうした年金未納問題と並行して、社会保険庁職員が国民年金未納状況を閲覧し、メディアに納付状況をリークしていたことが発覚した。
国民年金の納付状況は社会保険庁職員であれば誰でも閲覧可能な状態となっており、守秘義務違反を犯した関係者300人余りが懲戒処分を受けた。

7月11日|参議院議員選挙、自民党が敗北し民主党が議席を伸ばす

朝日新聞デジタルより引用

第20回参議院議員通常選挙が2004年7月11日に行われた。

第二次小泉内閣は構造改革を推進していたため小泉構造改革に対する評価が問われる選挙となった。
またイラクでの多国籍軍参加年金未納問題などで内閣支持率が伸び悩んでいた自民党に対し、前年の衆議院選挙で議席を大幅に増やしており、自民党と民主党の二大政党の戦いとなることが予測された。

参議院選挙の結果は、改選121議席に対し自民党は49議席民主党は50議席を獲得し民主党の勝利と言える結果となった。
しかし自民・公明党を合わせれば参議院の過半数が維持されたため、小泉内閣に対する信任が得られたとして、小泉純一郎がそのまま内閣総理大臣を担当した。

9月17日|日本プロ野球選手会が1リーグ制移行への猶予期間を求めてストライキを決行


2004年に日本プロ野球で発足以来初となるストライキが行われた

6月に大阪近鉄バファローズが親会社の財務状況を理由にオリックス・ブルーウェーブとの合併を発表し、将来の1リーグ制移行も視野に入れた球団数の削減が見込まれることとなったため、日本プロ野球選手会は球団数削減を見込んだ近鉄とオリックスの合併に反発した。

選手会は来シーズンからの合併が強行された場合には9月11日以降、9月中の土曜日・日曜日に行われる1軍・2軍の全試合を対象にストライキを実施するとしたが、9月9日・10日に行われた球団側と選手会の団体交渉で暫定合意点に関する申し合わせが行われたことにより、ストライキはひとまず回避された。

しかし、9月16日・17日に行われた球団側と選手会の団体交渉が決裂したため選手会は9月18日・19日にストライキを決行すると発表し、発表の通り9月18日・19日に予定されていた1軍と2軍の全公式試合が中止された。

最終的に9月22日・23日に再度団体交渉が行われ、「12球団制の維持」「新規参入球団への預かり保証金制導入」など7項目で合意し一連の問題は終結した。
12球団を維持するためにライブドアと楽天がプロ野球新規参入で争ったが、楽天が加入を認められ2リーグ制が維持されることとなった。

また選手会と球団側の交渉において、ヤクルトの古田敦也が「オーナーレベルで話し合いを持ちたい」と発言したことに対し、読売ジャイアンツの渡辺オーナーが「たかが選手が」と発言したことでが、プロ野球ファン・選手などから大きな反発を呼んだ。


10月23日|新潟県中越地震発生、死者68名


2004年10月23日、新潟県中越地方を震源としてマグニチュード6.8、震度7の地震が発生した

震度7を観測したのは1995年の阪神・淡路大震災以来9年ぶり、観測史上2回目で、マグニチュード6を超える大きな余震も複数回発生した。

新潟県では7月に大規模な水害が起こっており、夏から秋にかけて上陸した10個の台風の影響で地盤が緩んでいたことで多くの土砂崩れも引き起こし、鉄道や道路が約6000か所で分断された。

電話やインターネットなどのライフラインも破壊され、災害に強いと思われてきた携帯電話も基地局そのものの機能が停止したことで広範囲で使用不能となった。
当時はEメールやショートメールサービス(SMS)が電話不通時の連絡手段として利用されたが、停電地域で充電ができず、モバイルバッテリーもなく停電復旧まで携帯電話が不通となる被災者もいた。

新潟県中越地震の発生により人々の防災意識は高まり、翌年には震災時帰宅支援マップや防災袋など、災害に備えるためのアイテムを多くの人が買い求めることとなった

10月31日|アルカイダに拉致された香田証生さんが殺害・発見される


10月31日、アルカイダの関連組織である「イラクの聖戦アルカイダ組織」に拉致された香田証生さんが殺害・発見された

香田証生さんはバックパッカーとしてイスラエル経由でイラクに入国していたが、行方不明となっており「イラクの聖戦アルカイーダ組織」により拉致されていた。
2004年1月より日本はイラクに復興支援のため自衛隊を派遣していたが、犯行グループはイラクから自衛隊を撤退させなければ香田さんを殺害するとの声明を10月27日に出した。
日本政府はテロリストに屈しないとの立場から自衛隊の撤退要求を拒否したが、10月31日にイラクの首都バグダードで香田さんの遺体が発見され、犯行グループが香田さんを殺害する様子がYouTubeで公開された。

香田さんが拉致される以前の同年4月にも、安田純平ら日本人がイラクで人質として拘束されており、二つの事件は自衛隊がイラクへ派遣されることを反対する世論を後押しすることとなった。
同時に危険地域に乗り込み拘束された香田さんら対しては「自己責任」であるとして、政府に対して自衛隊の撤退や身代金の支払いを求める家族らに対してバッシングが起こった。

香田さんの拉致・殺害に関わったのは6人で、このうち4人がイラクの内務省に逮捕されており、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を率いたザルカーウィーは2006年6月にアメリカ軍によって殺害されている。

2004年(平成16年)の文化・芸能ニュース

1月15日|綿矢りさ(19歳)と金原ひとみ(20歳)が芥川賞最年少ダブル受賞

文藝春秋より引用

綿矢りさは1984年生まれの小説家で、京都の紫野高校在学中に『インストール』で第38回文藝賞を17歳で受賞、2003年に早稲田大学在学中に『蹴りたい背中』を発表すると同作品で芥川賞を19歳という若さで受賞する。
19歳で芥川賞を受賞したのは、これまでの23歳を大幅に短縮する記録となった。

また『蹴りたい背中』は村上龍の『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。
綿矢りさは2006年に早稲田大学を卒業し、京都で専業作家として活躍している。

金原ひとみは1983年生まれの小説家で、文化学院高等学校を中退後、2003年に『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞、同作品で綿矢りさとともに第130回芥川賞を受賞した。
金原は芥川賞を受賞時は20歳であった。

金原は2005年に集英社の編集者と結婚し、専業作家として活躍している。

若い女性二人の芥川賞受賞は大きな反響を呼び、『蹴りたい背中』は100万部を突破、『蛇にピアス』も60万部を売り上げた。
また写真週刊誌で特集が組まれるなど、二人の容姿も注目された。

3月20日|いかりや長介が悪性リンパ腫のため死去


「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、またコメディアンや俳優で人気を博したいかりや長介が72歳で他界した

いかりや長介はコントグループ「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして『8時だョ!全員集合』に出演、同番組は最高視聴率は50%を超えるお化け番組となり、いかりや長介もお茶の間の人気者となった。
また1985年からは俳優としてTVドラマや映画に出演、渋い演技で人気を博した。

いかりや長介は2003年5月30日に頸部リンパ節癌により緊急入院するなどし体調が懸念されたが7月に退院、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の舞台挨拶に参加するなど仕事へ復帰した。
しかしこの時いかりやの家族には余命は8カ月と宣告されおり、本人は余命については知らされていなかった。
翌2004年3月に癌の転移によりいかりやは再入院、6日後に他界した。

いかりや長介の葬儀には、約40人もの報道陣が集まり、多くの芸能関係者やテレビ局から花やお悔やみのコメントが寄せられた。
3月23日に行われた通夜には、ドリフターズのメンバー4人のほか、関係者やファン合わせて約3500人もが参列した。

いかりや長介は、没後まもなく第一回喜劇人大賞「特別功労賞」を受賞し、テレビでは次々と追悼番組が流された。

6月6日|窪塚洋介が自宅マンションの9階から転落するも、命に別状なし

ラヴォールより引用

窪塚洋介は1979年生まれの俳優で、ドラマ『GTO』や『池袋ウエストゲートパーク』で人気を博し、2001年の映画『GO』では史上最年少で日本アカデミー賞の新人俳優賞と最優秀主演男優賞などを受賞していた。

しかし窪塚洋介は2004年、自宅マンション9階から転落する事故を起こす。

転落した窪塚はフェンスに激突したが、地面が芝生であったことなどから重症を負うも命に別状はなかった。
窪塚はその時の記憶は全くないと話しており、今までの人生で死にたいと思ったことは一度もないと語っている。

2002年に窪塚は映画『ピンポン』で主演した際、『アイキャンフライ』と叫びながら川へ飛び込むシーンがあったため、窪塚の転落事故も「アイキャンフライ事件」とネットなどで揶揄された。

10月29日|松坂大輔と柴田倫世が結婚を発表


松坂大輔は1980年生まれのプロ野球選手であり、高校3年生時の甲子園大会で春夏連覇をなしとげると「平成の怪物」と呼ばれるようになった。
高校卒業後はプロ野球球団の西武ライオンズへ入団、ベストナインを史上最多の7回受賞し、メジャーリーグでも活躍した。

柴田倫世は1974年生まれの元日本テレビのアナウンサーで、慶応義塾大学を卒業後日本テレビへ入社、アナウンサーとして主にスポーツ番組を担当していた。

松坂と柴田倫世は1998年、柴田がアナウンサ1年目の時に知り合い、2004年12月に結婚した。
その後二人の間には2005年に第一子、2008年に第二子、2010年に第三子が誕生している。

2007年に松坂のメジャーリーグ挑戦が決定すると、家族3人で渡米している。

11月16日|「ヨン様」がワードオブザイヤーに選ばれる


2004年は韓国ドラマ『冬のソナタ』が日本でも大流行し、主演のペ・ヨンジュンが2004年のワードオブザイヤーを受賞した。

2003年にBSで放送された『冬のソナタ』が2004年にNHK総合で再放送されると、夜11時台のドラマとしては異例の視聴率を叩き出し、最終回の平均視聴率は20%超となる。
主演はペ・ヨンジュンとチェ・ジウであったが、特にペ・ヨンジュンは日本の中年女性に大人気となり、日本でペ・ヨンジュンは「ヨン様」「微笑みの貴公子」などと呼ばれ、ペ・ヨンジュンのマフラーの巻き方が「ヨン様巻き」として流行した。
韓国のドラマロケ地への聖地巡礼ツアーが好調となり、ペ・ヨンジュン来日の際は成田空港へ過去最多の3500人が出迎えるなど熱気に包まれた。

『冬のソナタ』の日本での大ヒット以降、日本では韓流ブームが巻き起こったため、『冬のソナタ』は韓流ブームの先駆け的存在となっている。

チェ・ジウは2018年に一般人男性と結婚し、第一子となる女児が誕生している。
ペ・ヨンジュンは2015年に女優のパク・スジンと結婚、2016年に第一子が誕生している。

12月|安倍なつみが写真集・エッセイ集などに掲載されていた詩が盗用であることを認め謝罪

AIKRUより引用

安倍なつみは1981年生まれのアイドルで、1998年に女性アイドルグループ『モーニング娘。』としてデビューすると人気が沸騰し、同年モーニング娘。として紅白歌合戦に出場するなど全国的なアイドルへ成長する。

しかし2004年、過去に発売されていた、自身の写真集やエッセイに掲載した詩がaikoやYukiなどの歌詞を盗作であったことが発覚した
指摘を受けた安倍なつみは謝罪を行い、写真集・エッセイは発売中止、安倍なつみは芸能活動を2ヶ月間停止することとなった。

また安倍は2004年末に後藤真希、松浦亜弥とともに「後浦なつみ」として紅白歌合戦への出場が決定していたが、盗作を受けて出場辞退に追い込まれた。
安倍なつみは愛称が「なっち」であったが、盗作を受けてネットでは「ぬっち」などのあだ名がつくなど非難が殺到した。

安倍なつみは活動自粛期間があけた2005年2月に芸能活動を再開、2015年には俳優の山崎育三郎と結婚、2人の子供に恵まれている。

2004年(平成16年)のスポーツ

8月13日|アテネオリンピック開幕


日本は金16、銀9、銅12と多数のメダルを獲得した

8月22日|高校野球夏の大会で、駒澤大学附属苫小牧高等学校が北海道勢として史上初の大会優勝


夏の甲子園で、駒澤大学附属苫小牧高等学校(以下、駒大苫小牧)が北海道勢として初の大会優勝を成し遂げた。

駒大苫小牧はこれまで甲子園に3回出場していたものの全て1回戦負けを喫していた。
また北海道・東北から優勝校が出たことはなかったため、下馬評では駒大苫小牧の評価は非常に低かった。

駒大苫小牧は、初戦で佐世保実を7-3で破って大会初勝利を挙げると、2回戦では日大三に7-6で競り勝った。
その勢いのまま横浜、東海大甲府を破り、決勝戦は済美高校と対戦、甲子園史上に語り継がれる名勝負を13-10で勝利した。

「奇跡」とも呼ばれる駒大苫小牧の優勝だったが、駒大苫小牧のチーム打率は大会新記録となる4割4分8厘であり、圧倒的な打力で甲子園を制した。
北海道では決勝戦の最高視聴率46.2%を記録し、北海道中が駒大苫小牧の優勝に心酔した。

2004年(平成16年)の主要事件

1月30日|茨木女子大学生殺人事件発生

https://www.youtube.com/watch?v=TKQPXvY8RgE

茨城女子大学生殺人事件とは、茨城大学の女子大学生が行方不明となり遺体で発見された事件のことである。
午前0時頃に一緒にいた男子大学生に「明日の朝には戻る」と書いたメモを残し、自宅から外出したものの、翌朝自宅から6キロ離れた地点で遺体で発見された。

女子大学生は視力が0.1しかなかったにも関わらずコンタクトレンズをせず、携帯や財布も家に置いたまま外出しており捜査は難航した。

事件から13年が経過した2017年、遺体に付着したDNAの型が一致した事件当時22歳のフィリピン人男性が逮捕された。
取り調べで、フィリピン人男性は仲間と共謀、自転車に乗っていた女子大学生を車で進路妨害し、強姦の上首を絞めて殺害したことを供述した。

2019年1月16日、犯人には無期懲役の判決が下された。
この事件は男子大学生が転寝(うたたね)している際に女子大学生が外出したため、転寝君事件とも言われていた。

2月17日|四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件発生

https://www.youtube.com/watch?v=A_Mucadm1-g

四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件とは、泥棒扱いされた男性が店員や買い物客らに取り押さえられ、警察が拘束後に被疑者が死去した事件である。

2004年2月17日、2~3歳くらいの幼児を抱いた若い女がATMで68歳の男にぶつかり、男性ともみ合いになる。
女性が「泥棒」と叫んだところ、客らが男性を取り押さえた。
取り押さえの最中に女性は逃走し、かけつけた警察官が男性を20分間うつ伏せに押さえつけた。
その間男性は意識を失い嘔吐をしたが、警察官は拘束を続け、高度のストレスによる心不全と不整脈により翌日に死亡した。

2007年、男性の遺族が三重県を相手取り、警察官の度を越えた対応について訴訟を起こしたが、三重県側は争う姿勢を示した。
2011年、名古屋高等裁判所の控訴審判決では警察官の拘束と男性の死亡の因果関係が認められ、三重県に対し3644万円の支払いを命じた。

一方で逃走した女性は見つからず、2011年に時効が成立している。

6月1日|佐世保小6女児同級生殺害事件発生

NAVERまとめより引用

佐世保小6女児同級生殺害事件とは、長崎県佐世保市の一律大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女子児童をカッターで切りつけて死亡させた事件である。
小学校を舞台とした女児の犯行であったため、ニュースで大きく取り上げられた。

加害者と被害者女児は共にウェブサイトを運営していたが、その運営を通じで加害女児は被害女児に対して殺意を募らせていった。
加害女児は小学5年生の頃から情緒不安定になり、暴言を吐いたりカッターナイフを振り上げることもあった。

犯行は給食の準備中に行われ、被害者を学習ルームへ呼び出し、手で目を隠し背後から首を切り付けた
加害者は事件後に児童自立支援施設内の中学を卒業、社会復帰している。

殺害動機がネット上のトラブルで逢ったことや、加害者女性の写真がネット上で出回り、着ていた服装から「ネバタちゃん」と呼ばれるなどネット社会の到来を告げる事件としても有名である。

8月2日|加古川7人殺人事件発生

シェアチューブより引用

加古川7人殺人事件とは、47歳の無職男性が両隣に住む親類ら男女8人を刃物で襲い、7人を殺害1人に重傷を負わせた事件である。

加害者の男は叔母や隣家などから「邪魔者扱いされている」と少年時代から感じており、恨みを募らせていた。
事件前日には近隣住民男性から自宅を覗き込まれていると思い口論となり殺害しようと思ったが見失い、隣家の住人の殺害を優先することを決意した。

殺害当日は隣家の家族および叔母の家族らを牛刀や金槌で殺害し放火した上、実弟に母親を預けて立ち去った。
男性はガソリンをまいた車内で焼身自殺を図ったが生存し、逮捕された。

刑事裁判では2015年6月10日に、死刑判決が確定している。

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