1994年(平成6年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1994年(平成6年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

目次

1994年(平成6年)の主要ニュース

3月4日|政治改革法案(政治改革四法)可決

日本経済新聞より引用

政治改革法案とは、政党交付金の導入と小選挙区比例代表並立制を主とする、政治改革を目的とした法律のことである。

政党交付金の導入は、戦後最大の汚職事件とも呼ばれるリクルート事件を発端とし「企業献金は見返りを求めず賄賂性のないもの」とすることを目的とした。
政党交付金の導入により、団体などから政治献金を受け取ることが制限される一方で、国民1人あたり年間250円、総額320億円が国会議員数の割合により、各政党へ配布されることとなった。

また小選挙区比例代表並立制は、従来の中選挙区制度が同一政党内の足の引っ張り合いとなり、票を獲得できる地元への利益のばら撒きの温床となることから廃止された。
小選挙区制度は1つの選挙区で1名のみが選出される制度であり、比例代表制度は各政党が獲得した投票数に比例して候補者が選出される制度である。
この両者を併用させたのが小選挙区比例代表並立制であり、有権者は小選挙区と比例代表で2つの票を投じることとなった。

2020年現在、小選挙区比例代表並立制は衆議院選挙で採用されている。

4月26日|名古屋空港で中華航空140便が墜落、死者264名


中正国際空港発名古屋空港行きの中華航空140便が名古屋空港で墜落し、264人が死亡した。
この事故は中華航空としては過去最悪、日本の航空事故としても1985年に起きた日本航空123便墜落事故に次ぐ死者数となった。

事故の原因は副操縦士の操作ミスであり、乗客乗員271名のうち生存者はわずか7名であり、乗客のうち153人が日本人であった。

裁判では中華航空の責任を認め、原告団232名へ総額50億あまりを支払うように命じた。

4月28日|細川内閣総辞職を受け、羽田内閣が発足


細川内閣は政治改革法案成立の目的で繋がっていた連立政権であったため、政治改革法案成立後は細川首相への求心力が低下していた。
そこへ、細川護熙が佐川急便からの借入金を未返済のままである、という疑惑が持ち上がる。

細川護熙は佐川急便への返済証明を行うことが出来ず、また連立政権内で小沢一郎と武村正義の対立が表面化したこともあり、4月8日に退陣を表明する
連立与党は羽田孜を後継首相として指名し、羽田内閣が発足した。

6月30日|羽田内閣総辞職を受け、自社さ連立村山内閣発足、46年ぶり社会党を首班とする内閣が誕生


細川内閣総辞職のあと、連立与党が首相に指名したのは羽田孜であった。
羽田は新生、日本新、民社、自由、改革の5党による統一会派「改新」を、社会党の影響力低下の目的で結成するが、社会党が大反発し連立与党を離脱する。

また永野法相が「南京大虐殺はでっちあげ」失言を行ったため、羽田内閣の求心力は低下する。
野党の自民党が内閣不信任案を提出したが、連立与党は不信任案を否決させる見通しが立たなくなったため、羽田内閣は総辞職を行い、現行憲法下で最短の64日という短命内閣となった。

自民党は社会党・さきがけ党と「社会党委員長が内閣総理大臣となる」ことを条件に連立政権を打診し、3党合意のもと村山内閣が発足する。

7月8日|日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋を乗せたスペースシャトルが打ち上げ


日本人初の女性宇宙飛行士が誕生した。

慶応大学医学部を卒業した向井千秋は、1977年に外科医となり慶応義塾大学病院出身としては初の女性外科医となった。
外科医としては、石原裕次郎の担当医のひとりを務めている。

1983年に旧宇宙開発事業団の宇宙飛行士募集に応募した向井は、1985年宇宙飛行士へ選出され、1994年にスペースシャトル「コロンビア号」で宇宙での実験を多数行った。
また1998年にも2度目の宇宙を経験している。

向井は宇宙で最も感動したことは「重力の存在」と述べており、物が落ちるという現象が、物が地球の中心へ吸い寄せられているように見えると発言している。

7月8日|北朝鮮の金日成主席が死去


1994年のアジア国際情勢における最大のニュースは、金日成主席の死去であった。

金日成政権は戦後50年間にわたり継続し、党・国家・軍すべての権力を握る最高権力者として君臨していたため、北朝鮮国内やアジアにおける情勢の悪化が懸念された。
金日成の死後、国家元首の地位を正式に継承したわけではなかったが、長男である金正日が実質的な最高指導者として北朝鮮の統治を開始した。

9月4日|関西国際空港開港


関西国際空港が1994年に開港した。
1964年の海外旅行の自由化により航空需要は増大しており、関西で唯一の国際空港である大阪国際空港だけでは需要を吸収しきれない状態となっていた。

開港わずか2年目の1995年に阪神・淡路大震災が発生し建物の損傷が確認されたが、航空機の運航に支障は出なかった。

2018年の台風21号では、冠水や浸水に伴う停電が発生、またタンカーが関西国際空港連絡橋に衝突し9月5日・6日は関西国際空港は閉鎖され、全ての航空便が欠便となった。
また空港への通行手段が遮断され、利用者や従業員が空港内に孤立する事態が発生している。

利用客は2000年まで増え続けたが、その後は横ばいとなっている。

10月13日|大江健三郎氏がノーベル文学賞受賞


川端康成がノーベル文学賞を受賞して以来、日本人のノーベル文学賞受賞者は現れていなかった。
しかし1994年に大江健三郎がノーベル文学賞を受賞し、日本人としては26年ぶりの快挙に日本中が湧き上がった

大江健三郎の受賞理由は「詩的な言語を使って、現実と神話の入り混じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見るものを当惑させるような絵図に描いた」というものであり、大江文学の現代性がスポットを浴びた。

川端康成がノーベル文学賞を受賞した時、受賞記念講演で「美しい日本の私」という題目で演説を行ったが、大江はそれをもじって「あいまいな日本の私」という受賞講演を行った。

しかし大江健三郎の文章は非常に難解であり、ノーベル文学賞を受賞後に発売された「あいまいな日本の私」でさえ1995年のベストセラー第22位と商業的には苦戦した。

1994年(平成6年)の文化・芸能ニュース

1月|木梨憲武と安田成美が結婚

日刊スポーツより引用

人気お笑いコンビ「とんねるず」の木梨憲武と、人気女優の安田成美が結婚し話題となった。
ふたりは1986年に映画『そろばんずく』で共演し、現在では3人の子供に恵まれている。

二人が結婚した1994年はNHKの連続テレビ小説『春よ、来い』で、安田成美はヒロインを演じていた。
しかし1995年安田は突如ドラマを降板、原因は脚本の橋田壽賀子との対立であり、橋田はインタビューで「飼い犬に手を噛まれた」と発言している。

二人の間には2020年現在3人の子供が誕生している。

6月2日|若花田と花田美恵子が結婚


大相撲・大関の若花田と花田美恵子が結婚した。

1991年から日本航空で客室乗務員として勤務していた花田美恵子と大関の若花田は、合コンで知り合い、1994年に結婚し、1男3女に恵まれた。
1998年に若花田は横綱へ昇進、史上初の兄弟横綱が誕生することとなる。

しかし2002年に別居し、2007年に離婚した。
離婚の原因は若花田の度重なる浮気であり、親権は花田美恵子が持つこととなった。

8月2日|ビートたけしがバイクの酒気帯び運転、ガードレールに衝突し骨折


タレントのビートたけしが8月2日の午前1時40分ごろ、原付バイクで走行中にガードレールへ衝突した。
たけしは頭部に重傷を負い、長期の入院・通院により半年間はテレビに出演することができなかった。

退院時の復帰会見では、顔面の半分が麻痺している状態だったことから喋り方がこれまでのビートたけしのものではなく、視聴者を驚かせるとともに今後の芸能活動を心配する人が多かった。
その後トークは問題なく行えるまで回復したが、顔面の後遺症は回復すること無く、現在も一部残ったままである。

会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」など自虐的なネタを披露し、回復をアピールした。

なお事故の原因は酒気帯び運転であり、書類送検され起訴猶予処分となっている。

12月|斉藤由貴がモルモン教信者の一般男性と結婚

斉藤由貴は1984年にデビューしたアイドルで、1985年に放映された『スケバン刑事』が大人気となり、トップアイドルとなった。
また1986年からはNHK連続小説『はね駒』でヒロインを演じ、アイドルだけでなく女優としても人気を定着させた。

女優として大成した斉藤由貴が結婚したのは1994年のことであり、相手はモルモン教の一般人男性であることが話題となった。
斉藤由貴は結婚する前からモルモン教信者であり、夫もモルモン教の友達からの紹介であった。

モルモン教は生前の性交渉を禁じられているが、婚前には川崎麻世や尾崎豊との不倫が報じられており、当時モルモン教徒から非難の声があがっていた。
しかし斉藤は2017年に再び不倫しているところを週刊文集にスクープされた。
当初は不倫を否定していた斎藤であったが、その後証拠となる写真が出てきたため、不倫を認めざるを得なくなり芸能界から干されることとなった。

1994年(平成6年)の事件

6月27日|オウム三大事件の1つ、松本サリン事件発生


松本サリン事件とは、オウム真理教の教徒らが神経ガスのサリンを散布したことにより、8人が死亡したテロ事件である。
坂本弁護士殺害事件、地下鉄サリン事件と並んでオウム3大事件の1つとも言われ、事件当初は無実の人間が犯人扱いされる報道がされのちに問題となったことでも有名である。

オウム真理教は松本市に道場・食品工場を建設するための土地の売買・賃貸契約を結んだが、裁判所に賃貸契約を取り消されたため裁判所・裁判官官舎を標的としサリンの散布を行うことを決定した。

オウム真理教の幹部らは長野県松本市北深志の住宅街で神経ガスのサリンを散布したが、第一通報者である河野義行が重要参考人として取り調べられ、自宅から農薬が押収された。
実際には農薬からサリンを合成することは不可能であったが、執拗な取り調べが行われ、マスコミはあたかも河野義行が農薬を混合してサリンを発生させたことが確定的であるような報道を行った。

サリン生成に必要な化学物質をオウム関連のビルが購入していたことが発覚し、1995年の1月1日には読売新聞がサリンとオウムの関係を報道したが、同年に阪神淡路大震災が発生し、強制捜査は行われなかった。

このため大きな事件を起こせば強制捜査は行われないとオウム真理教が認識し、翌年の地下鉄サリン事件へ繋がることとなった。

8月5日|平成最大の銀行強盗、福徳銀行5億円強奪事件

Time-AZより引用

福徳銀行5億円強奪事件とは、神戸市で発生した銀行強盗事件であり、1回の現金強奪金額としては過去最高金額である

神戸市中央区三宮町の福徳銀行神戸支店の車庫で、現金輸送車から現金が入ったジュラルミンケース3個を下ろしている最中、2人組の男が拳銃を突きつけジュラルミンケースを強奪した。
ジュラルミンケースの総額は5億4100万円であった。

1999年になり、換金を依頼した札の番号が奪われた札の番号と一致したことなどから、元会社員を事情聴取したが、直後に自殺した。
また元暴力団員の男も捜査線上に浮かんだが、2002年4月1日に時効が成立している。

元暴力団員の男は2007年に別の現金強盗事件を起こし、懲役8年を言い渡されている。

10月8日|大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件発覚

怖い話ネットより引用

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件とは、主犯格3人を含む10名が、壮絶なリンチにより死者4名・負傷者1名の被害者を出した、少年による残虐な事件のことである。

犯行は大阪・愛知・愛知の3県にまたがり、その残虐な行為により戦後史に残る少年犯罪となった。

2011年4月1日に主犯格3名の死刑が確定している。

12月21日|日本テレビ郵便爆弾事件発生


日本テレビ郵便爆弾事件とは、日本テレビ放送網本社に当時13歳の俳優・安達祐実宛の封筒が届き、爆発した事件である。
封筒を開封した安達の所属事務所社員が左手親指を失うなどの被害が発生した。

容疑者の検挙はできず、2009年12月21日に時効が成立した。

1994年(平成6年)のスポーツ

5月1日|F1ドライバーのアイルトン・セナがレース中の事故が原因で死去


トップレーサーとしてF1界の1時代を築いていたアイルトン・セナが、レース中の事故で亡くなった。
サンマリノGP、予選3日目の出来事であった。

スタートから首位を走行していたセナだったが、7周目直後に突如走行が不安定になり、コースアウトしたままコンクリートウォールに激突した。
セナは意識不明のまま病院に運ばれたが、34歳という若さで帰らぬ人となった。

この大会では、予選1日目で同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし、2日目にはローランド・ラッツェンバーガーが死亡。そんな不穏な流れの中でセナ自身も不安定になっていた。

時代を代表するトップレーサーだったセナの死は全世界に衝撃を与え、地元ブラジルでは国葬が行われた。

11月23日|貴乃花、横綱へ昇進


大相撲で、貴乃花が横綱への昇進を果たした。

1990年5月場所にて17歳8か月で新入幕を果たした貴乃花は、「19歳5か月での幕内初優勝」や「大関で2場所連続の全勝優勝」といった記録を次々と打ち立て、誰もが認める実力での横綱昇進だった。

新横綱で迎えた1995年1月場所では、初日に武双山に敗れて30連勝がストップするも、13勝2敗の成績で優勝決定戦を制し3連覇を達成した。

1998年には兄の若乃花も横綱へ昇進し、若貴時代が幕を開ける。

12月4日|薬師寺保栄VS辰吉丈一郎、日本人同士による初の統一王座決定戦が行われる。


愛知県の名古屋市総合体育館にて、薬師寺保栄対VS辰吉丈一郎による日本人同士のボクシング世界王座統一戦が行われた。

日本人同士の統一戦は史上初だったことから大きな注目を集め、試合前には舌戦が繰り広げられた。

試合は、激闘の末最終ラウンドでも決着がつかず、薬師寺保栄が2-0の判定勝利を収めた。
試合終了後に勝者の薬師寺を担ぐ辰吉のスポーツマンシップも話題となった。

なお、試合はテレビで生中継され、各地域で軒並み40%程の高視聴率を記録した。
東海地区での視聴率は52.2%にも及んだ。

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