1991年(平成3年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1991年(平成3年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

1991年(平成3年)の主要ニュース

1月17日|多国籍軍によるイラクへの攻撃が開始、湾岸戦争が勃発


1990年8月2日イラクによるクウェート侵攻が開始されるが、それに対し国際連合が多国籍軍をイラクへ派遣し、1991年1月17日より空爆を行うことによって湾岸戦争が勃発した。

イラクは石油輸出により外貨を獲得していたが、当時の原油価格は下落が続いておりイラク経済は大きな打撃を受けていた。
経済の低迷によりアメリカへの債務を返済できないイラクに対し、アメリカはイラクへの農産物の輸出を停止する制裁を加えたため、イラクの経済困窮はさらに深刻なものとなっていた。

石油価格は石油の採掘を増産すれば低下するが、湾岸戦争でイラクの敵対国となったクウェートは原油の大量採掘を行い原油価格低下に拍車をかけており、イラクはクウェートを激しく非難していた。
このような両国の対立は沈静化することなく、イラクのフセイン大統領は1990年8月に突如クウェート侵攻を開始、クウェート全土を占領した。

国際連合はイラクへの即時撤退を求めたが、イラクは従わなかったため、武力行使を決定しイラクへの攻撃を開始する。
多国籍軍は陸上作戦開始からわずか100時間でクウェートを開放することに成功し、湾岸戦争は終結した

4月16日|ソ連大統領ゴルバチョフが初来日


1991年、ゴルバチョフがソビエト連邦の最高指導者として訪日し、海部俊樹と会談を行った。

ソビエト連邦とは1917年のロシア革命でロシア帝国を倒した、ロシア・ウクライナ・ザカフカースなどの共和国からなる社会主義国家であった。

1985年にソビエト連邦の書記長に就任したゴルバチョフは経済が低迷していたソビエト連邦の政治改革を推し進めるため、「再建」を意味する政策「ペレストロイカ」および情報公開を意味する「グラスノスチ」を行った。
これらのゴルバチョフの政策は社会主義国家から民主主義への移行を目的としていた。

ゴルバチョフと海部の会談内容は、日ソ平和条約の締結交渉や北方領土問題であったが、いずれも合意には至らず両国は日ソ共同声明に署名した。
共同声明では北方領土が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書化されている。

4月24日|湾岸戦争の停戦後、日本がペルシャ湾へ掃海艇(機雷の除去)を派遣


自衛隊が初めて海外に派遣され、任務を行ったのが湾岸戦争後のペルシャ湾における機雷の除去作業である

日本は湾岸戦争において人的な貢献を行うことができなかったが、130億ドルの資金協力を行った。
しかし国際世論は人的資源を供与しない日本に避難の声があがり、クウェート解放後にクウェート政府がワシントンポストへ掲載した感謝広告の中に日本の国旗が掲載されていないという事実は、日本が国際社会から認められていないという象徴的な出来事となった。

こうした国際世論に呼応するため、日本では自衛隊法で可能な機雷の除去を行うことが決定した。
ペルシャ湾に派遣された自衛隊は99日間で34発の機雷を処分し、ペルシャ湾水路の安全を確保するために大きな貢献を果たしたのである。

自衛隊の海外派遣には賛否両論が沸き起こったが、自衛隊が帰港した際には歓迎式典が行われ、自衛隊の海外初派遣は成功したと言われている。

6月3日|雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生


雲仙普賢岳は長崎県の島原半島に存在する火山であり、1990年に噴火し1991年には土石流などが発生していた。
噴火活動により大きな人的被害を起こしたのが、1991年6月3日の火砕流であった

5月24日に最初の火砕流が発生すると、マスコミ各社は火砕流の様子を撮影するため撮影ポイントに集結するようになっていた。
またマスコミが報道した写真は世界中の注目を浴び、火山学者なども避難勧告地域内に立ち入るようになった。
また火砕流の撮影もより迫力のある写真が撮影できるよう、各社が競うようになっていた。

そのような状況下で大規模な火砕流が発生した。
撮影ポイントにいた報道関係者は避難用に車を用意していたが、視界を奪われ避難することができず、結果として43名の死者・行方不明者を出す惨事となってしまった。

死者の多くは報道関係者であったが、火山学者や警察官・消防団員なども犠牲となった。

6月20日|野村・大和・日興・山一証券の大口投資家への損失補填が発覚

日本経済新聞より引用

1991年から始まったバブル崩壊は、証券会社の膿をあぶりだすこととなった。
当時4大証券会社と呼ばれていた、野村・大和・日興・山一証券は、年金や企業向け商品で顧客が被った損失を肩代わりしていたのだ。

バブル期の証券会社は右肩上がりで成長する株式や不動産へ顧客から預かった資金を投資することにより利益があげていたが、バブル崩壊と共に各証券会社は多大な損失を被った。

損失補填は適正な市場取引を阻害することから、大蔵省は1989年に損失補填を慎むよう通達を発出していたが、損失補填は証券業界全体で蔓延していたことが発覚し社会問題となった。

11月5日|海部おろしにより内閣総辞職、宮澤内閣発足


海部俊樹は女性スキャンダルによりわずか69日で退陣した宇野宗祐の後を継ぎ総理に就任ましたが、1991年に政治関連改革法案の廃案の責任をとる形で総辞職を行う
しかし内実は党内で強力な基盤を作り上げることができず、自民党内で派閥争いが起きたことが原因と言われている。

海部おろしの詳細についてはこちらを参照おねがいします。

12月25日|ソビエト連邦消滅


社会主義国家であり、ロシア・ウクライナ・ザカフカースなどの共和国からなるソビエト連邦が崩壊した。
崩壊のきっかけとなったのは8月クーデターである。

ロシア・カザフスタンと新連邦条約を調印する予定であったソビエト連保最高指導者のゴルバチョフは、調印日前日の8月19日に保守派が起こしたクーデターにより軟禁状態となる。

クーデターは国際社会・軍部・国民の支持を得られなかったために失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕される。
ところが逮捕された首謀者はゴルバチョフの側近であったため、ソ連共産党は求心力を失うこととなる。

ロシアのエリツィン大統領はソ連共産党の活動停止の大統領令に署名し、ゴルバチョフは8月24日にソ連共産党書記長の辞任を発表した。
年末にエリツィンはソビエト連邦からの脱退を決定し、ソ連は崩壊する。
また12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任したことにより、ソ連崩壊が決定的なものとなった。

ゴルバチョフは1990年にノーベル平和賞を受賞しているが、その理由はソビエト連邦をペレストロイカにより民主化させたことや、冷戦を終結させたこと、1987年に中距離核戦力全廃条約を米ソで締結させたことによるためで国外からは大きな評価を得ている。

しかし国内においてはソビエト連邦を崩壊させた自分として評価は最悪であり、国内外で評価は2分している。

1991年(平成3年)の文化・芸能ニュース

3月9日|行方不明となっていた、ものまねタレントの若人あきら発見される


ものまねタレントの若人あきらが、釣りの最中に突然行方不明となった。
ワイドショーでは、事件に巻き込まれた可能性もあることから大きく報道がなされ、警察に届出が出された後は大々的な捜索が行われた。

若人あきらは3日後に、頭を強く打ったことが原因と思われる記憶喪失の状態で発見された。

記者会見も行われたが「何がわからないのかわからない」と答え、行方不明当時の記憶は何もないことを強調した。

9月9日|アイドルグループ・SMAPがCDデビューを果たす


1991年にアイドルグループ・SMAPがCDデビューを果たした。

大人気グループである光GENJIの後を受け継ぐ形でデビューを果たしたSMAPであったが、アイドル業界は下火の状態であり、SMAPのデビューシングルも15万枚と、ジャニーズ事務所所属のアイドルとしては最低の売り上げ枚数であった。

しかしSMAPはこれまでのアイドルグループと異なる路線、つまりはバラエティ番組への進出をはかり、成功を収める。

1998年には「夜空ノムコウ」で初のミリオンセラーを達成し、1990年代2000年代のトップアイドルとして君臨することになる。

1991年(平成3年)の事件

5月14日|信楽高原鐵道列車衝突事故発生


信楽高原鐵道列車衝突事故とは、普通列車とJR西日本の臨時快速列車が正面衝突し42人死亡した事故である。

この事故で信楽高原鉄道列車の乗客12名、JR西日本の乗客30名、合計42名が死亡した。

沿線の信楽町では「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき’91」が開催されており、それに伴い信楽高原鉄道は運航本数を倍増していたが、想定より多くの来場者数を集客していたため列車も超満員の状態であり、多くの被害者が出る要因の1つとなった。

事故の原因は、信楽高原鉄道が法令に基づく安全の確認を怠ったことが原因で、結果的に信号機不良により多数の死者を出した。

被害者に対する損害賠償は滋賀県・信楽町からの借入金で補填したが、2013年には自力再建を断念し、県と町は債権を放棄している。

7月11日|「悪魔の詩」を翻訳した筑波大学教授が大学内で殺害される


筑波大学教授の五十嵐一が筑波大学キャンパスのエレベーターホールで刺殺され、犯人は逃走した。

五十嵐教授は反イスラム的小説の『悪魔の詩』を日本語訳しており、イランの最高指導者が本の出版に関わった者に対する死刑宣告を行っていたため、イラン政府が五十嵐教授殺害に関与しているものとされた。

犯人は明らかにならないまま事件は2006年に時効を迎えたが、その後の調べではイスラム革命防衛隊の特殊部隊による犯行と見られている。

7月29日|風の子学園事件発覚

Gooブログより引用

風の子学園事件とは、不登校や問題行動を起こす児童・生徒を更生させる目的で設立された『風の子学園』で、少年少女2人がコンテナ内で放置され死亡した事件である。

自営業の長女と会社員の長男は風の子学園へ入所していたが、喫煙に対する懲罰として、手錠で繋がれた状態でコンテナ内で44時間監禁された。
真夏にコンテナへ放置された2人は脱水状態となり死亡した。

学園町の男性は懲役5年の有罪判決が下り、『風の子学園』は事件により廃業となっている。

12月12日|12月12日〜28日にかけスナックママ連続殺人事件が発生

産経ニュースより引用

スナックママ連続殺人事件とは、犯人の男が2週間の間に4人のスナックママを連続して襲い、強盗・殺害した事件である。
スナックママと2人きりになった状態でママを襲い、金品を略奪する目的でスナックママを殺害していた。
また翌1992年1月には落語家の桂花枝(現・桂あやめ)宅に電話を借りるふりをして部屋を訪れ、首を絞めた上で金品を奪っている。

そんな犯人が逮捕された理由は自首であった。

桂花枝から金品を奪った翌日、女性会社員宅を訪れ「同じマンションに住んでいる母と義父が不仲なのでいさせてほしい」という理由で16時間近く居座ったが、犯人は女性に犯行を自供、女性会社員から自首を説得されたため翌日マンションで逮捕された。

犯人は2017年7月13日に死刑が執行されている。

1991年(平成3年)のスポーツ

1月26日|ユーゴスラビアのテニス選手、モニカ・セレシュが全豪オープンテニスで初出場・初優勝、最年少優勝記録を達成

 

 

5月14日|横綱・千代の富士が引退


相撲界の一時代を築いた横綱・千代の富士が現役を引退した。
千代の富士は優勝31回、53連勝、当時史上最多となる1045勝など多くの記録を持ち、1989年に国民栄誉賞を受賞した歴史に名を残す力士である。

引退会見で千代の富士は涙を浮かべ「体力の限界、気力もなくなり、引退することになりました」と語った。
また引退理由として、貴花田戦でその強さに衝撃を受け、同時に自分はもう潮時だと悟ったことを話した。

断髪式は1992年1月場所後に行われた。
引退後は師匠の九重部屋を継承し、2008年には日本相撲協会理事に就任した。

2016年7月31日、すい臓がんのため死去。
日本政府は昭和を代表するスポーツ界のヒーローとして、旭日中綬章を授与している。

8月25日|世界陸上東京大会でカール・ルイスが9秒86の世界新記録を達成


世界陸上東京大会でカール・ルイスが9秒86の世界新記録を達成し、人類史上初の9秒8台を記録した。

1983年の第1回世界陸上競技選手権大会で100m、走り幅跳び、4×100mリレーで3冠を達成したカール・ルイスは、それ以降陸上競技のトップを走り続けていた。

なお、この時の記録がカール・ルイスの自己ベストとなった。
同大会では、走り幅跳びでも生涯ベストとなる8m87cmを記録している。

カール・ルイスは1997年に現役を引退し、その後は俳優活動を行っている。

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