1986年(昭和61年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1986年(昭和61年)に起きた芸能・文化・スポーツ・事件・事故などを紹介・解説しています。

1986年の主要ニュース

2月9日|ハレー彗星が76年ぶりに地球へ接近


75.3年周期で地球に接近する彗星、ハレー彗星が76年ぶりに地球へ接近し、1生に一度しか見られないであろうその姿を一目見ようと世界中の人々が大きな関心を寄せた。
最も地球に近づくと報道された4月は、南半球でしか見られないことから、天文家が南半球へ移動したり南半球へのツアーが殺到するなどの社会現象が起きた。

またハレー彗星の観測のために各国が探査機を送り出し、ハレー彗星の核が汚れた雪玉状の組成を持ち、核の形がひょうたん型であることが捉えられた。
ハレー彗星の詳細な様子が捉えられたのは1986年が初めてのことであった。

次にハレー彗星が接近するのは、2061年と考えられており、進化した科学はどこまでハレー彗星に迫れるのかが注目されている。

4月1日|男女雇用機会均等法が施行


男女雇用機会均等法とは、企業が人員の募集・採用や昇進、定年、懐古などの労働条件において男女差を理由とした差別を禁止する法律のことである

1986年の男女雇用機会均等法では上記の禁止規定は努力規定であったが、1999年の男女雇用機会均等法の改正により禁止規定となり、加えてセクシャルハラスメントの禁止が規定されている。

また2007年には出産・育児を行った者に対する不利益な取り扱いの禁止、2017年にはマタニティハラスメントの禁止が盛り込まれ、従来女性が不利であった労働市場・環境の改善が行われた。
加えて1986年以前は看護師は看護婦、客室乗務員はスチュワーデスと呼ばれていたが、これらの名称は男女雇用機会均等法の施行により変更となった。

本法律の施行により、(特例はあるものの)性別を限定して社員募集することが違法となったことも、我々の労働環境に影響を与えた要因の1つである。

4月26日|チェルノブイリ原発事故発生


チェルノブイリ原発事故とは、旧ソ連ウクライナ共和国にて発生した、史上最悪の原子力事故の1つである

タービン発電機の実験中に大爆発が発生し、その後の火災も重なり、14エクサベクレルの放射性物質が大気中に放出されたのである。
高濃度の放射線汚染により現場周辺は居住が不可能な地域となり、約16万人もの人々が移住を余儀なくされた。

放射性物質はソ連のみならず世界へ広がり、特に北半球はほぼ全域が汚染され、日本でも放射性物質を含有した雨が観測された。

2020年現在でも原発から半径30キロ以内の地域は立ち入り禁止となっており、350キロ離れた地域でも高濃度汚染地区が見られ、農業や畜産業が禁止されている。

6月1日|上野動物園のジャイアントパンダ、トントン誕生


1982年に上野動物園に来園した雄のフェイフェイと雌のホアンホアンの2頭の間に、1待望の赤ちゃんパンダ(雌)が誕生し、日本中に大ブームを巻き起こした
そのパンダがトントンである。

フェイフェイとホアンホアンの間には1985年チュチュという赤ちゃんパンダが誕生していたが、ホアンホアンの下敷きになりチュチュは生後45時間で死亡した。
トントンは日本国内で初めて繁殖に成功したパンダとして、大きなニュースとなり、12月16日に一般公開された際には1か月で上野動物園への来園者が42万人に達し、前年比2倍の数字に至った。

またフェイフェイとホアンホアンは、1988年にもオスのユウユウを出産している。

トントンは2000年癌による腹膜炎で死亡し、はく製が国立科学博物館で展示されている。

6月2日|衆議院解散、別名「寝たふり解散」「死んだふり解散」

詳細は日本の総理大臣・中曽根康弘

9月6日|土井たか子が主要政党としては初めて女性の党首(日本社会党)となる


1986年の参議院選挙で日本社会党が惨敗後、党首に就任したのが土井たか子である。

土井たか子の歯に衣着せぬ物言いは人気となり、1989年の参議院選挙では選挙前の議席の倍以上の議席を獲得した。
改選分では社会党が第一党(参議院選挙は議員の半分が3年ごとに入れ替わるが、今回の選挙で当選した議員は社会党が一番多かった)、総議席では自民党の過半数割れを引き起こした。
これは「土井ブーム」「マドンナブーム」など言われ流行語にもなり、ピークの1990年には衆議院選挙で136議席を獲得するに至った。

しかしその後は候補者の擁立に苦しみ、1993年の新党ブームに押され議席を大きく減らし、社民党へ改称した現在も議席数の確保に苦しんでいる。

11月15日|三原山が噴火


三原山は東京都の伊豆大島にある火山であり、100~200年に一度の大噴火が起きていると考えられている。

1986年の噴火では、噴火開始6日後になると住人3000人が居住する集落に溶岩が迫り、全島避難が決定された。
当時の首相である中曽根は東京都知事の災害派遣要請が出る前に自衛隊を派遣し、全島民の救出を完了させ、素早い対応が評価される一方で独断専行が横暴であると国土庁などから非難を受けた。

島外避難指示は同年12月20日に解除され、負傷者がないまま事態は終息した。

1986年の文化・芸能ニュース

2月21日|本最高年齢の泉重千代が120歳で死去

毎日新聞より引用

泉重千代は、鹿児島県徳之島出身の男性であり1995年まではギネスブックに「世界最長寿の人物」として掲載されていた
1986年に他界した際は120歳であると思われていたが、その年齢は不確かなものであるとされ、2012年にギネス記録は取り消されてしまう。

戸籍登録では1871年で6歳と記録されているため泉が120歳まで生存していたことが疑われていたなかったが、1980年になり週刊読売が戸籍に実父母の記載がないことや、明治時代の徳之島の戸籍の信頼性に問題があることなどを指摘した。

このような疑惑によりギネスブックは2012年に泉の記録を取り消し、泉が死去した年齢は実際には105歳であったとの説が濃厚となっている。

4月8日|人気アイドル岡田有希子が飛び降り自殺


岡田有希子は、1967年生まれのアイドルであり1984年に音楽賞などを受賞し、ポスト松田聖子と言われるほどの人気を博した人物である。
しかし岡田は1986年に飛び降り自殺をし、18歳という短い生涯を終えた
トップアイドルの飛び降り自殺という前代未聞の事件であることに加え、週刊誌が岡田有希子が死亡している写真を掲載したことなどからもさらに大きな話題となった。

1983年にタレント活動を開始した岡田は、1984年に入ると年に1回しか休日が無いという多忙な売れっ子アイドルとなる。
1985年には体調不良の中点滴を打ちながら芸能活動を続けた。
1986年1月にはシングル「くちびるNetwork」がオリコンで初登場1位となり、4月5日からは全国コンサートが行われ、4月10日にテレビ朝日のドラマ収録が控えていた。

しかし岡田は4月8日、自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂を起こす。
ガス漏れに気づいた住人が東京ガスに通報し、レスキュー隊が駆け付けた時、岡田は押し入れの中で泣いていたと言われている。
その後病院で治療を受けて会社へ戻った岡田は、本社ビルの屋上から飛び降り自殺を行った。

人気絶頂期のアイドルの死はファンに衝撃を与え、後追い自殺をした若者も多数(30人と言われている)現れた。
自殺の原因としては俳優の峯岸徹との交際が原因などと報じられたが、真相は藪の中である。

12月9日|ビートたけしがフライデーを襲撃


ビートたけしが12人のたけし軍団を引き連れ、写真週刊誌「フライデー」を襲撃した。
たけしは消火器を噴射し、雨傘などでフライデー編集部員を殴打し、ろっ骨骨折などなどの傷害事件を起こし駆け付けた警官に逮捕された。

ビートたけしがフライデーを襲撃した理由は、フライデー社員が当時たけしと交際していた専門学校生にケガを負わせていたからである。
フライデー社員は、専門学校生の女性に対し学校前で取材を行おうとしたが、立ち去ろうとした専門学校生の顔にテープレコーダーを突き付けて手を掴んで引っ張るなどの行為により2種間の怪我を負わせていた。

激怒したビートたけしはフライデーを襲撃したのであるが、逮捕によりビートたけしは8カ月間テレビ番組への出演を謹慎することとなり、裁判ではたけしに懲役6カ月・執行猶予2年の判決が下された。

1986年(昭和61年)に起きた主な事件

2月1日|中野富士見中学いじめ自殺事件は、「いじめ自殺」がクローズアップ


中野富士見中学いじめ自殺事件とは、中学2年生の男子生徒が「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」と遺書を残して自殺した事件のことである。

いじめには、いじめグループが主催する「葬式ごっこ」が行われそれに教師四人が加わり寄せ書きを行っていたことが大きな問題となった。
また自己保身のため、担任教師が生徒らに口止め工作を行っていたことや、教育委員会へ事件の報告を行わないなどの隠蔽工作が明らかとなった。

「いじめ自殺」が初めてメディアによりクローズアップされた事件としても有名であり、いじめに加担していた16名は書類送検され、生徒2名に保護観察処分が下された。

5月20日|トリックが推理小説並みだった「トリカブト保険金殺人事件」


※トリカブト殺人事件は4分過ぎから開始されます

トリカブト保険金殺人事件は犯人が凶器としてトリカブトを用いたこと、毒物の化学的特性を活かして自らのアリバイを作り上げたことで話題となった事件である。

トリカブト保険金殺人事件の犯人神谷力は、3人の妻と結婚しそれぞれの妻は1981年、1985年、1986年に他界していた。
3人目の妻の急死を受け、医師は死因を急性心筋梗塞と診断したが、不審に思った医師は妻の血液30ccを保管した。
また神谷は3人目の妻に1億8500万円の保険金をかけていた。

1991年警視庁は神谷を別の横領事件で逮捕したが、1986年の妻の死が保険金目当ての殺人事件である可能性を察知した。
また警察は使用された毒物がトリカブト(毒性成分アコニチン)であることと、神谷がトリカブトとフグ(毒性成分テトロドトキシン)を大量に購入していたことを突き止めた。

しかし問題となったのは神谷がいつ妻に毒を飲ませたかであった。
トリカブト(アコニチン)は即効性の毒であるが、殺害された3人目の妻が苦しみだしたのは神谷と別れてから1時間40分後のことであり、神谷にはアリバイが成立していた。

実はトリカブト(アコニチン)とフグ毒(テトロドトキシン)には互いに毒性を中和させる作用があり、一方トリカブト(アコニチン)の作用時間はフグ毒(テトロドトキシン)より長いため、両毒物を摂取させると時間経過によりトリカブトの毒性が徐々に出現するのであった。

神谷は2つの毒物の特性を利用し、自らのアリバイを作り上げていたのだった。
このトリックは血液を保管していた医師により明らかとなり、神谷に無期懲役の判決がくだった。

神谷は2012年に大阪医療刑務所で病死している。

11月15日|指が切断された!?若王子さん誘拐事件発生


若王子さん誘拐事件とは、三井物産マニラ支店長の若王子さんが誘拐された事件である

1986年11月15日、ゴルフ場からの帰りにフィリピン共産党の軍事組織に若王子さんが誘拐された。

翌年1月16日には三井物産本社に右手中指や脅迫状、写真などが送付され、写真の若王子さんは非常に衰弱したように見えたため、日本のマスコミはセンセーショナルに誘拐事件を報じた。

しかし3月31日若王子さんは解放され、中指は本人のものではなく写真も犯人の偽装であることがわかった。

一方で三井物産は若王子さんの身柄と引き換えに身代金を支払っており、このことが(誘拐事件をさらに誘発させるため)大きな非難を浴びた

1986年(昭和61年)に起こったスポーツ界の出来事

4月20日|マラソンの瀬古利彦選手(エスビー食品所属)がロンドンマラソンで初優勝


日本を代表するマラソン選手、瀬古利彦が、ロンドンマラソンで初優勝を果たした。

1970年代後半から日本長距離界をリードし続けた瀬古であったが、道のりは順風満帆ではなかった。

大学在籍時は、3年次に福岡国際マラソンで優勝、4年次にはボストンマラソンで日本学生新記録での2位となった。
また、箱根マラソンでは「花の2区」で、3、4年時に区間新記録を樹立している。
大学卒業後は、ヱスビー食品に入社し、数々のマラソンで世界新記録や大会記録を打ち立てていた。

しかし、1980年のモスクワオリンピックでは、ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットに伴い日本が出場を辞退、1981年には故障により1年以上マラソンから遠ざかった時期もあった。

さらに、優勝候補に挙げられていた1984年のロサンゼルスオリンピックは、体調不良等も重なりまさかの14位という結果に終わった。

そんな瀬古にとって、このロンドンマラソン優勝は復活を告げる大きな意味合いがあった。
その後は同年のシカゴマラソン、翌年のロンドンマラソンでも優勝を果たし、瀬古は再び輝きを取り戻した。

9月1日 |世界選手権自転車競技大会プロ・スプリントで、中野浩一が10連覇達成


競輪選手の中野浩一が、世界選手権自転車競技大会プロ・スプリントで10連覇を達成した

高校時代まで陸上競技をしていた中野だが、当時競輪選手であった父の勧めから競輪の練習を始め、競輪学校に35期生として合格する。

競輪学校卒業後はデビューから18戦無敗、さらに各大会で優勝し、プロスポーツ選手として日本史上初の年間賞金獲得額1億円を達成した。

特に1970年代後半から80年代前半は驚異的な強さを誇り、1977年に日本人選手として初めて世界選手権で優勝すると、1986年までに10連勝を達成した。
その後も1992年に引退するまで、日本競輪界のトップを走り続けた。

余談ではあるが現役時代からアートネイチャーのCMに出演しており、子供たちには「カツラの人」という不名誉な形で有名になっていた。

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