1989年(昭和64年/平成元年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1989年(昭和64年/平成元年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

目次

1989年に起きた主なニュース

1月7日|昭和天皇が腺がんにより崩御


昭和天皇は1926年から1989年にかけ60年余りにわたり、歴代天皇で最長の在位期間を記録した天皇である。

在位中には第二次世界大戦を経験し、1945年8月15日にラジオ放送で玉音放送を行い終戦を臣民に伝えた。
また戦後の1946年には人間宣言を行い、天皇の神格性を否定し、象徴天皇として公務を果たした。

1988年9月19日に吐血により救急搬送され日本に自粛ムードが広がる中、1989年1月7日に腺がんで崩御した

崩御後はTVが昭和を振り返る特番をこぞって放送し、CMも放送されなかったため、多くの人がレンタルビデオ店へ殺到する事態が起こった。

1月8日|元号が「平成」に改元


1月7日、昭和天皇の崩御を受け皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。

元号法に基づき翌日の1月8日より元号が「平成」となったが、法律に基づいて元号が制定されたのは日本史上初のことであった

元号の候補とされていたのは「平成」「修文」「正化」の3つであり、「元号に関する懇談会」を経て、臨時閣議で新元号が「平成」に決定された。
1月7日に小渕恵三内閣官房長官が記者会見で新元号が『平成』であるとを発表した。

平成の意味は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である。

2月13日|リクルート事件でリクルート社・前社長の江副浩正らが逮捕


リクルート事件とは、リクルート社の社長江副浩正が、リクルートの関連会社であるリクルートコスモスの未公開株を政治家や官僚などに賄賂として譲渡した事件である。

江副浩正は、リクルートの政治的地位を高める目的でリクルートコスモスの株を譲渡した。
譲渡先の政治家には、中曽根康弘前首相、竹下昇首相、宮澤喜一副総理、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長など、自民党の主要ポストを占める人物が含まれていたため、戦後最大の企業犯罪と言われている。

江副浩正には懲役3年執行猶予5年の有罪判決が下され、安倍晋太郎自民党幹事長の秘書らに対しては略式起訴がなされた。

竹下昇首相ら政治家に対しては、株譲渡の目的が不明瞭であったとの理由から起訴がされなかったが、リクルート事件を受けて竹下内閣は総辞職に追いやられている。

4月1日|消費税が導入


今ではあたりまえとなっている消費税が導入されたのが、1989年のことであった

高度経済成長の終了と、選挙での得票を目的とした高齢者に対する過剰な社会保障拡充のため、日本は財政赤字となっており赤字補填のため国債に依存する体質となっていた。

消費税導入は赤字体質脱却のために導入が論議されていたが、消費税導入を訴えるたびに選挙で自民党は敗北していたため、導入論議から20年が経過した1989年ようやく3%の消費税が導入されるに至った。

2020年現在では税収における消費税の割合は所得税とほぼ同等の19~20兆円程度となっており、税収において非常に大きな割合を占めている。

4月11日|竹やぶ騒動、1億3千万円の札束が川崎市の竹やぶで発見される


神奈川県川崎市の竹やぶから1億3千万円の札束が入ったバッグが発見された。
その5日後には同じ竹やぶから9千万円が入った紙袋が発見され、竹やぶには大金を求めて多数の人が押し寄せる事態となった。

所有者として名乗り出たのは通販会社社長の野口和康社長で、昭和40年代に切手の売買で儲けたとし竹やぶの中にお金を「置いた」と主張した。

発見者の2人は拾得額の1割が渡された。

6月3日|竹下内閣が総辞職、リクルート事件を受けて


戦後最大の企業犯罪・収賄事件と呼ばれるリクルート事件。

リクルート事件では自民党主力議員が賄賂を受け取っていたことが発覚し、内閣支持率は一桁にまで低下、総辞職に追いやられる。

詳細は⇒竹下内閣の功績・退陣などについて解説を参照お願いします

6月4日|中国で天安門事件が発生


天安門事件は正式名称を「六四天安門事件」と呼び、中華人民共和国の北京・天安門広場に集結していた民主化を求めるデモ隊に対し、軍隊が発砲等を行い多数の死傷者(正確な数は不明)を出した事件である

天安門事件の発端は、改革派である胡耀邦元総書記の死去がきっかけとなった。
特定の主導者はいなかったが、天安門広場を中心に上海を含む中国全土の都市で民主化を求めるデモが起こった。

デモが収まらない中、戒厳令が交付され中国人民解放軍と民主化を訴える市民との衝突が6月4日に始まる。

市民および人民解放軍ともに犠牲者が出たが、少なくとも300人以上が殺害されたのではないかという指摘がある。

天安門広場の武力鎮圧は海外のテレビ局により放送され、民主主義国である西側諸国からは非難の声があがり、外交制裁が科された。

7月23日|第15回参議院議員通常選挙で日本社会党が第一党となる


1986年に社会党党首に就任した土井たか子は日本初の女性党首として人気を博し、第15回参議院通常選挙で46議席を獲得、一方で第一党であった自民党は36議席の獲得にとどまった
このため自民党は非改選議席を含めて過半数割れへと追い込まれ、社会党が第一党となった。

自民党はリクルート事件や消費税導入などで有権者からの非難を浴びていたことも要因だったが、何よりも土井たか子個人の人気が選挙に大きく影響を与えたため、「土井ブーム」と呼ばれた。

開票速報では土井は「山は動いた」という名言を残し、1989年の政界を象徴する言葉となった。

8月10日|宇野宗佑の失脚により、第一次海部内閣が発足


竹下内閣総辞職を受けて首相に就任したのが宇野宗佑ですが、就任期間わずか69日で総辞職に追いやられてしまいます。
その理由は「女性スキャンダル」でした。

宇野宗佑の総理就任理由や、スキャンダルの内容についてはこちらを参照お願いします。

8月26日|秋篠宮文仁が川嶋紀子との婚約を発表


1989年は「紀子様ブーム」に沸いた1年ともいえる。

秋篠宮文仁親王が学習院大学2年生の時に、1学年下の川嶋紀子と知り合い、サークル活動を通じて交際を深めた。

8月26日に秋篠宮文仁と川嶋紀子の婚約が発表されると、日本はその可憐な姿に羨望の声があがり、ワイドショーなどで連日特集が組まれ「紀子さま」ブームが沸き起こった。

1991年には眞子内親王、1994年には佳子内親王、2006年には悠仁親王が誕生している。

11月9日|ベルリンの壁が崩壊


ベルリンの壁とは、1961年から1989年まで東ドイツのベルリン市内に存在し、東ドイツと西ドイツを分断していた壁である。
東ドイツは社会主義国家、西ドイツは自由主義国家であり、ベルリンの壁は冷戦(社会主義国家と自由主義国家の対立)下にある世界情勢を象徴する建造物とされていた。

東側から西側へ人口の流出が続いていたために建造されたベルリンの壁であったが、人口流出の止まらない東ドイツ政府が西ドイツへの旅行・国外移住の規制緩和政令を公布したことで、その日の夜からベルリンの壁に市民が殺到し、撤去作業が始まった。

この出来事をベルリンの壁崩壊と呼び、冷戦構造の終結、つまりは社会主義国家の崩壊を意味する象徴的な出来事となったのである。

また翌1990年に東西ドイツの統一がなされている。

12月29日|日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭

時事ドットコムより引用

1989年に日経平均株価が38,957円をつけ、2020年に至るまでの30年間この高値は抜かれていない。

翌年からバブル経済の崩壊とともに株価も下落基調となり、1990年10月1日に株価はほぼ半値である2万円を割る水準まで落ち込み、リーマンショック後の2003年4月28日には7603円とピーク時の1/5にまで落ち込んでしまう。

これは1989年の日本がバブル経済真っただ中であったことと、その後30年間は日本の経済が以前のようには成長できていないことを示している。

1989年に起きた主な文化・芸能ニュース

1月1日|THE WALLSがMr.Childrenに改名


日本を代表するバンドとなったMr.Childrenだが、バンド結成当初(1987年)はTHE WALLSというバンド名であった

1992年にメジャーデビューしたMr.Childrenは4枚目のシングルである『CORSS ROAD』がスマッシュヒット、続く5枚目のシングル『innocent world』でオリコンチャート1位を獲得し、サクセスストーリーを歩んでいくことになる。

漫画家、手塚治虫が胃がんのため死去


手塚治虫は1928年生まれのマンガ家であり、1950年よりマンガ雑誌で『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などのヒット作品を連発した。

また『ブラックジャック』『火の鳥』など青年向けのマンガにも名作と呼ばれる作品を多数輩出し、「マンガの神様」と呼ばれる存在である。

1988年に胃がんが発覚し、1989年になると昏睡状態に陥るようになる。
手塚は昏睡状態に陥りながらも意識が回復するとマンガを描こうとする状態であり、最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」であった。

1989年2月9日に胃がんのため60歳で他界した。

歌手美空ひばりが呼吸不全にため死去、享年52歳


美空ひばりは昭和を代表する歌手であり、11歳でレコードデビューをすると、1949年に12歳で主演を果たした映画『悲しき口笛』が大ヒット、主題歌で映画タイトルと同じ『悲しき口笛』が45万枚の売り上げを果たした。
45万枚は当時の史上最高記録であり、12歳にして国民的歌手となる。

終戦は1945年であり、戦後の混乱の中、子供である美空ひばりが人々の心を捉えた象徴的な出来事となった。

1952年には映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が70万枚を売り上げ、自身の持つ記録を更新した。

晩年は肝硬変を患い、病をおして1988年に「不死鳥コンサート」を開催するが、1989年6月24日、呼吸不全により52歳で死去した。

7月11日|歌手の中森明菜が近藤真彦の自宅で腕を切り自殺未遂

デイリー新聞より引用

当時人気の絶頂期にあった歌手・中森明菜が自殺未遂を起こした。

自殺未遂を起こした場所はジャニーズで絶大な人気を誇った男性アイドル・近藤真彦の自宅であり、二人は以前から交際がうわさされていた。

自殺未遂の背景には近藤がニューヨークで同じく人気のアイドル、松田聖子と密会していたことが引き金となったとも、明菜が近藤に貸していたお金が原因だったともいわれている。
命に別条はなかった中森明菜だが、1年間芸能活動を停止、しかし1989年12月31日に突如記者会見が開かれる

記者会見場には金屏風が置かれており、近藤真彦と中森明菜が同席していたため結婚発表の記者会見かと思われたが、会見の内容は中森明菜の自殺未遂に対する謝罪会見であり、近藤は無関係を装った。

金屏風は「婚約会見を開く」と言って中森明菜をおびき出すためのものであったと言われている。

1989年に起きた主な事件

3月29日|東京都足立区で女子高生コンクリート詰め殺人事件発覚


女子高生コンクリート詰め殺人事件とは、16~18歳の少年4人がアルバイト先から帰宅途中の女子高生を拉致し、40日間の監禁中に、凄惨な暴行・凌辱を繰り返した上で殺害し、コンクリートに詰めて投棄した事件である。

残忍・凶悪な犯罪として日本社会に多大な影響を与え、加害者少年を死刑にすることや実名報道を行うことを求める声が相次いだ。

事件は別の強姦事件で逮捕された加害者少年が事件を自供したため発覚したが、主犯の少年には懲役20年、他の少年には懲役数年と極めて軽い判決が下された。
出所後4人中3人が再犯している事実は、少年法が未成年者に対して甘すぎるとする主張に繋がっている。

4月20日|朝日新聞珊瑚記事捏造事件発生


朝日新聞珊瑚記事捏造事件とは、沖縄県西表島の海底サンゴに朝日新聞カメラマン本田嘉郎が落書きをし「日本人ダイバーのモラルが低下している」と自作自演を行った事件である。

朝日新聞では5月にお詫びの文章を掲載し、本田を懲戒解雇した。
しかし当時の自然環境保護法では、動植物の損傷を禁止する行為は禁止されていなかったため不起訴処分となっている。

問題を起こした本田嘉郎は現在千葉県で「アンズガーデン」を経営している。

7月25日|SOS遭難事件発生


SOS遭難事件とは、北海道警察がヘリコプターが偶然、大きく「SOS」とシラカンバの倒木で描かれているのを忠別川源流部で発見した事件である。

1989年、北海道の大雪山山系旭岳で東京都の登山者2名が行方不明となり、北海道警察が捜査を開始する。
2名は無事救助されたが、その道中で北海道警察は山中に倒木で「SOS」という文字が描かれているのを発見する。
「SOS」は救助された登山者2名が作成したものではなかったため、翌日から調査が行われた。

倒木の近辺には人骨と「SOS」と叫ぶ声が収録されたカセットテープレコダーが発見され、事件の謎が深まることとなり、カセットテープの内容がTVでも報道されるなど話題となった。

その後の調査で人骨の鑑定が行われ、遭難・死亡したのは1984年ごろに遭難した会社員男性と特定され、事件は幕を閉じた。

8月7日|東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で犯人の宮崎勤が自供


東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは、1988年から1989年にかけ東京・埼玉で連続発生した幼女を対象とした連続誘拐殺人事件のことである。

犯人の宮崎勤は4歳から7歳の幼女4名を対象に、誘拐・殺害後にわいせつ行為を行いその様子をビデオに収めるなどした。
また宮崎が山に遺棄した被害者が発見され、それに対し被害者家族が「死んでいても見つかってよかった」とTVで発言したことを受け、他の被害者の遺骨を遺族に送りつけたり、犯行声明文を出すなど常軌を逸した犯行が行われた。

宮崎は1989年7月、別の幼女にわいせつ事件を起こしているところを女児の父親に取り押さえられ、取り調べ中に犯行を自供した。

宮崎の自室には6000本近くあるビデオテープがあり、宮崎がおたく・ロリコンと報道されたことからオタクバッシングが起こった。

裁判では死刑判決が下され、2008年6月17日に死刑が執行されている。

11月4日|オウム真理教による坂本弁護士一家殺人事件発生


坂本弁護士一家殺害事件とは、オウム真理教被害者の会を組織していた坂本堤弁護士とその家族が、オウム真理教幹部により殺害された事件である。

坂本弁護士はオウム真理教の反社会性を批判し、テレビなどでもインタビューを受けるようになっていた。
また坂本は教団相手に訴訟の準備をすすめており、教団幹部は坂本の事務所で交渉を行ったが決裂した。

これを受けオウムの教祖である麻原彰晃は幹部に坂本弁護士の殺害を指示する。

幹部らは坂本弁護士が通勤に利用していた駅で待ち伏せをしたが、祝日であったため坂本弁護士は現れなかったため、坂本弁護士の自宅に向かい、坂本弁護士と妻、そして1歳になる子の3名を殺害した。

殺害の際、幹部の一人がオウム真理教のバッジを部屋に落としたためオウム真理教による犯行が疑われたが、神奈川県警はオウム真理教に対する捜査を行わなかった。
神奈川県警のずさんな捜査が、結果として1995年の地下鉄サリン事件を引き起こす結果となった。

1995年にサリン事件で逮捕されたオウム真理教幹部が自供を行い、山中に埋められた3名の遺体が発見された。
実行犯および教祖の麻原彰晃には死刑判決が下り、2018年に刑が執行されている。

1989年の主なスポーツ

4月15日|サッカー・FAカップ準決勝で、死者93人負傷者200人の大惨事、ファンが立見席へ殺到したことによる


イングランド・シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムで行われたFAカップ準決勝、リバプール対ノッティンガムフォレスト戦にて、死者93名負傷者200名の大惨事が発生した。

ゴール裏の立見席に限度をはるかに上回る数のサポーターが収容されたことで、すじ詰めになったサポーターがピッチと客席の間にあるフェンスに強く圧迫されて起きた事故だった。
死因の多くは窒息や酸欠で、内臓破裂や強打による者もいた。

この事故を受け、FAは立見席を椅子席に改修するよう各クラブに要請し、今回の事故で問題となったフェンスは各クラブの判断で撤去されることとなった。

この事故は、『ヒルズボロの大惨事』と呼ばれ、英国スポーツ史上最悪の事故と言われている。

9月29日|千代の富士が、角界初の国民栄誉を受賞


横綱・千代の富士が角界初となる国民栄誉賞を受賞した。

この年の7月に28回目の優勝を決めた千代の富士は、受賞直前の9月場所で通算勝ち星の最高記録更新を達成していた。
これらの大記録や、それまでの相撲界への貢献を讃えてのものだった。

国民栄誉賞の受賞に対して、千代の富士は「苦労をかけた師匠(先代九重)に良い報告ができます」と語った。

授賞式は首相官邸にて行われ、当時の内閣総理大臣・海部俊樹から授与された。

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