1999年(平成11年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1999年(平成11年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

目次

1999年の主要ニュース

2月28日|1997年10月の臓器移植法が施行されて以来、日本で初の脳死臓器移植が実施される

朝日新聞デジタルより引用

臓器移植法とは脳死した人物の臓器を提供することを可能とする法律であり、1999年2月28日に初の脳死移植が実施された。

臓器提供したのは40代の女性で脳出血で運ばれ高知県内の病院へ運ばれ、脳死が確認された。
死亡した患者からは肝臓や腎臓が摘出され、大阪や長野などへ臓器は運ばれ移植が行われた。

1999年は臓器提供意思表示カードの存在や、脳死の際に臓器を提供することの可否について日本での問題意識が大きく向上した1年となった

1999年の臓器移植法施行時は、臓器提供者が臓器移植の意思を生前に書面で残しておりかつ遺族が拒まないことを条件として、臓器の移植が可能となっていた。
だが民法上15歳未満は意思表示ができないものとされていたため、15歳未満の脳死者の臓器を移植することは不可能であり、多額の資金を用意して海外で臓器移植する子供が多発した。

日本は臓器移植に関しての条件が厳しく他国と比較して臓器移植の件数が伸びないことから、2010年に改正臓器移植法が施行された。
改正臓器移植法では本人の意思が不明瞭な場合でも家族の承諾があれば臓器移植が可能となり、小さなこどもへの臓器移植の道が開かれた。

しかし2018年のデータを基準にすると、日本の臓器移植件数は年間400件程度であり、アメリカの2万件と比較すると人口比を考慮してもかなり少ない件数となっている。
これは脳死に対する価値観の違いにより、臓器提供数がまだまだ少ないことを原因としている。

3月3日|日本銀行、ゼロ金利政策実施

日本銀行金融研究所より引用

ゼロ金利政策とは日本銀行が行った政策の1つで、銀行間での短期金利を0にすることで資金の流動性を高めることを目的としていた。
日本でゼロ金利政策が採用されたのは1999年のことで、日本はバブル崩壊後の爪痕から脱却できておらず、ゼロ金利政策導入時はあくまで一時的な政策として採用された

2000年にIT関連の企業が業績を伸ばす「ITバブル景気」が発生したため、ゼロ金利政策は一時解除されるが、2001年にITバブル崩壊とともにゼロ金利政策は復活した。
2006年には景気回復に伴い、再びゼロ金利政策は解除されたが、2008年の金融危機の際にゼロ金利政策がみたび導入されている。

さらに2016年にはマイナス金利政策が導入され、日銀は民間銀行に対し当座預金の準備預金のうち、法定額を超過した部分については利子を支払うよう求めている。

4月11日|東京都知事選、石原慎太郎が東京都知事に当選


石原慎太郎は1956年に文壇デビューした『太陽の季節』が芥川賞を受賞し、「NOと言える日本」がミリオンセラーとなるなどの業績を持つ、著名な作家である。
また弟は俳優の石原裕次郎である。

石原慎太郎は1968年に衆議院議員となり政界へ進出すると、環境庁長官・運輸大臣に就任し1995年に議員辞職する。
1999年に行われた東京都知事選へ立候補した石原は、舛添要一・鳩山邦夫など強力な候補者を抑えて初当選すると、2011年に4選されるまで12年にわたり東京都知事を務めることとなった。

都知事となってからの業績は、植樹による海の森公園の設立計画、エコツーリズムの導入、羽田空港再拡張事業、臨海副都心開発、不法滞在外国人対策の強化、東京マラソンの開催、東京オリンピック構想、新銀行東京設立、首都大学東京の設立、都立高校改革など多岐に渡った。

2012年に国政へ復帰し、維新の会と合流を果たしたがのちに意見の違いがあり分裂、次世代の党を結成するが2014年の衆議院解散で議席を獲得することができず、政界を引退した。

8月9日|国旗国歌法が成立

内閣府ホームページより引用

国旗国歌法とは、国旗を日章旗、国家を君が代と定めた法律で、1999年8月9日に成立し、8月13日に公布・施行された。

国旗国歌法以前の公立学校教育でも日章旗の掲揚と君が代の斉唱は事実上の義務であったが、「日本国憲法第19条が定める、思想・良心の自由」に反すると反対派が主張するなど社会問題化していた。
また1999年には広島県立世羅高校の校長が卒業式前に、君が代や日章旗に反対する教職員と文部科学省通達との間で板挟みとなり、自殺をする事件が発生した。

こうした社会的関心の高まりを背景に、日章旗を国旗・君が代を国歌とする法律である「国旗国歌法」が成立したのである。

だが法律制定後も公立学校での始業式や卒業式で君が代斉唱や国旗掲揚などを拒否する学校が存在し、問題が全てクリアになっているわけではない。

9月|神奈川県警で不祥事が相次いで発覚

カナロコby神奈川新聞より引用

1999年は神奈川県警の多数の不祥事が発覚した。

1996年9月ごろ神奈川県警の警部補の男性は不倫を行った上、覚せい剤を使用するようになり、妄想に取りつかれるようになったため薬物使用を自供した。
しかし神奈川県警は警部補の覚せい剤の使用を隠蔽し、不倫を理由として警部補を免職扱いとしていた。

この隠蔽が1999年に発覚する。
元警部補は覚せい剤取締法違反で、隠ぺいに関与した5人が犯人隠匿罪で起訴された。
さらに隠ぺい工作を指示する「不祥事隠蔽マニュアル」が神奈川県内の各署長宛へ配布されていたことが明らかとなり、本部長が引責辞任をする事態となった。

また、押収品を持ち出した巡査長が押収品をネタに女性に交際を強要する事件や、警ら隊の巡査部長が同僚隊員に対し暴行を加えるなどしていた事件が相次いで発覚し、神奈川県警の腐った体質が明らかとなった。

9月30日|東海村JCO臨界事故発生、作業員3名が死亡


東海村JCO臨界事故とは、茨城県にある株式会社JCOで発生した原子力事故であり、日本国内では初となる事故被ばくによる死亡者が出た事件である。

中性子線が敷地外にも放出され、被爆した作業員3名が救急搬送されるとともに半径350m以内の住民へ避難要請、500m以内の住民へ避難勧告などが出された。
中性子線は事故発生から20時間後に、JCO社員によって検出限界以下のレベルに収束した。

作業員のうち1人は放射線障害により皮膚が形成されず、体液が滲み出て止まらず、事故から83日後に多臓器不全により死亡した。
またもう一人も211日後に多臓器不全により死亡、3人目の作業員は骨髄治療を受け回復し、退院している。

事故は核燃料の製造工程において、正規マニュアルではなく裏マニュアルに沿って作業を行っていたずさんな作業工程管理が原因であり、JCOは刑事責任を問われ製造部長ら6人が業務上過失致死罪で起訴され、執行猶予つきの有罪判決が下されている。
また企業としても罰金刑が下されている。

10月14日|住友銀行とさくら銀行が合併を発表(現三井住友銀行)

ビジネスジャーナルより引用

1999年日本の金融機関の再編が行われ、その象徴となったのが住友銀行とさくら銀行の合併である。

1998年に経営破綻した日本長期信用銀行を象徴に、1990年代の金融機関はバブル崩壊の爪痕に苦しんでいた。
1996年から2001年にかけて金融ビッグバンと呼ばれる金融制度改革が行われ、銀行各社は単独で生き残ることに対する危機感により、競争と再編が行われることとなったのである。

1999年8月20日には第一勧業銀行、日本興業銀行、富士銀行の大手3社が合併し、世界最大のメガバンクである「みずほ銀行」が誕生した。
そして10月14日には住友財閥系の銀行である住友銀行と、三井財閥系の銀行であるさくら銀行が合併を発表し「三井住友銀行」が誕生、住友と三井という財閥の壁を超えた合併が行われなりふり構わない再編は社会に大きな衝撃を与えた

1999年の文化・芸能ニュース

1月31日|昭和の名プロレスラーで、全日本プロレス社長のジャイアント馬場が大腸がんのため死去


昭和のプロレス界を牽引してきたジャイアント馬場が61歳で他界した。

ジャイアント馬場は2mを超える巨体を武器に、プロ野球選手として巨人へ入団し1軍では3試合に登板したが、風呂場で転倒し左肘に外傷を負い、関節が伸展できない状態となったためプロ野球選手を引退した。
その後日本プロレスへ入団し1972年に全日本プロレスを立ち上げると、興行的な成功をおさめ、アントニオ猪木・力道山らと並ぶプロレス界の大スターとなった。
また馬場はバラエティー番組でも人気を集め、とくに日本テレビ系のクイズ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』では珍回答を行う出演者として視聴者の笑いを誘っていた。

しかし1999年1月31日に、大腸がんの肝臓転移による肝不全のため61歳で死去した。
馬場は自らが大腸がんであることを公表せず、他界する2カ月前の1998年12月5日までリングに上がり続け興行を行った。

7月31日|ロックバンドGLAYが「GLAY EXPO’99 SURVIVAL」を開催


GLAYは1990年後半から2000年前半にかけて絶大な人気を博したビジュアル系ロックバンドである。
人気絶頂期を迎えたGLAYは、1999年に幕張メッセで結成10周年を記念した「GLYAEXPO’99」を開催たが、単独アーティストによる有料コンサートとしては世界最大級の20万人を集めたことから、20万人ライブなどとも呼ばれることとなった。

ライブの規模があまりに大きくなったこと、音楽雑誌のみならず新聞の社会面に掲載されるなど、「GLAY EXPO’99」は社会現象となった。

8月26日|槇原敬之が覚せい剤取締法違反で逮捕される


槇原敬之は1990年代を代表するシンガーソングライターであり、1991年のサードシングル『どんなときも』がミリオンセラーを達成していた。

しかし1999年8月26日に覚せい剤が自宅から発見され、覚醒剤取締法違反の現行犯で逮捕された。
9月から予定されていたコンサートの中止やレギュラー番組の打ち切りなどが行われ、槇原は懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。

復帰後の2003年にSMAPへ提供した『世界に一つだけの花』は300万枚を突破する売り上げを記録し、音楽活動再開も本格化していった。
しかし2020年に再度覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕され、懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受け、活動自粛を余儀なくされている。

1999年のスポーツ

5月26日|武蔵丸が横綱へ昇進、曙に続き史上2人目の外国人横綱


アメリカ合衆国出身の力士・武蔵丸が横綱に昇進し、曙に続いて史上2人目の外国人横綱となった。

1994年1月の大関昇進から横綱昇進まで要した期間は、実に32場所であった。
これは、当時史上1位タイのスロー昇進である。
昇進式では、「横綱の名を汚さぬよう心・技・体に精進します」と述べる予定を言い間違えてしまうハプニングが起こった。

新横綱として迎えた7月場所は優勝を逃したが、続く9月場所では横綱として初の幕内優勝を果たした。
なお武蔵丸が横綱へ昇進して以降、日本国籍を持つ横綱は17年間誕生しないことになる(2017年の稀勢の里まで)。

6月6日|男子テニスのアンドレ・アガシが全仏オープン優勝、史上五人目の4大大会完全制覇

テニス365より引用

男子テニスのアンドレ・アガシが全仏オープンで優勝し、史上5人目の4大大会完全制覇を成し遂げた。
相手に2セット先取されてからの大逆転勝利であった。

1986年に16歳でプロデビューを果たしたアガシは、2年後の1988年に早くも世界ランキングを3位まで上げる。
さらに1992年にウィンブルドン選手権で優勝すると、1994年には全米オープンを制し、グランドスラムまであと一歩の所まで来ていた。

デビューから第一線を走り続けていたアガシだったが、全てが順調では無かった。
1997年から極度の低迷期に入り、一時は世界ランキングを141位まで落としていたのだ。

しかし当時のコーチによる指導により徐々に復調すると、この全仏オープンで見事優勝を果たしたのである。
その後は2000年・2001年の全豪オープンを2連覇するなど、再び輝きを取り戻した。

6月5日|女子テニス全仏オープン決勝で、マルチナヒンギスとグラフの「新旧女王対決」が実現


女子テニス全仏オープン決勝で、マルチナヒンギスとシュフティグラフの「新旧女王対決が実現した」。

当時グラフは選手生活晩年、絶頂期を迎えていたヒンギスの勝利を予想する声が多かった。

大方の予想通りヒンギスのペースで試合は進むが、第3ゲームでヒンギスが放った明らかなインショットがアウトだと判定される。
ヒンギスはこの判定に猛抗議したものの覆らず、そればかりかペナルティを取られ、会場からは大ブーイングが起こった。

ヒンギスはそこから明らかにリズムを崩し、対照的にグラフはどんどん勢いづいていく。
結果的に、かつての女王・シュフティグラフがこの試合を制した。

なお、ヒンギスはこの年の8月に世界ランキング3位で現役を引退している。

1999年の主要事件

2月|宇和島事件発生


宇和島事件とは、愛媛県警が誤認逮捕で無罪の男性を1年間拘留した事件である。

愛媛県内で民家から通帳などが盗まれ50万円が引き出される窃盗被害事件が起こり、被害者宅の鍵を持っていた男性を追及したところ、犯行を認めたところ逮捕した。
しかし裁判所での公判で男性は無罪を主張、判決がくだる前に、窃盗は高知県の連続窃盗犯の犯行であることがわかり男は釈放された。

男性は刑事補償482万円を受け取り、国と県に対し慰謝料を求める訴訟を起こし、600万円を支払うことで和解した。
拘留中に男性は失職したが、警察・検察共に責任はとらなかった。

4月14日|光市母子殺害事件発生


光市母子殺害事件とは、18歳の少年がアパートで主婦を殺害後、死姦し、11カ月の乳児も殺害した上財布を盗んだ犯罪である。
1審2審では無期懲役の判決が下ったが、最高裁で死刑判決が確定した。

少年による残虐な事件であることと、犯人を無罪にするべきという弁護内容、被害者がマスコミにたびたび登場し「犯罪被害者の権利確立」を訴えたことで非常に有名な事件となった。

弁護の内容は「強姦目出来ではなく優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱き着いた」「乳児を押し入れたのはドラえもんに助けてもらおうとしたから」「死後に強姦したのは復活の儀式」など荒唐無稽なものであり、世論の反発を呼んだ

また被害者の夫は犯罪被害者の権利確立のため尽力し、犯罪被害者等基本法の成立に大きく寄与した。

また弁護士の橋下徹が犯人の弁護団に対し懲戒請求を行うようTVで呼びかけたため、8,095件もの懲戒請求が提出された
橋下は「弁護士としての品位を害する行為」を行ったとして、大阪弁護士会から業務停止2カ月の懲戒処分となった。

5月30日|本庄保険金殺人事件が発覚


本庄保険金殺人事件とは、金融業を営む男が、自身の経営するパブ・スナックのホステスを客と結婚させ、保険金殺人を3度行わせた事件のことである。
3人目の被害者が「殺される」とマスコミに通報し、事件が発覚した。

主犯の男性はマスコミ報道が始まってから、自らのの店を会場として有料の記者会見を203回開き1000万円を稼いだ。
こうした男の行動や前年に和歌山毒物カレー事件が発生していたことなどから、事件は毎日のようにマスコミで取り上げられ、動画のように暴行事件も起こしている。

3人目の被害者が9億円の生命保険金をかけられ薬物中毒で重体となり入院、マスコミへ告発したことで事件は発覚した。

犯人には2008年に最高裁判所で死刑の判決が下されている。

7月23日|全日空61便ハイジャック事件発生


全日空61便ハイジャック事件とは、乗客乗員517人を乗せた飛行機が、離陸直後に搭乗者の男性にハイジャックされた事件である。
男性は包丁で客室乗務員を脅しコックピットへ侵入、機長と2人になると機長を包丁で刺し自分で航空機を操縦した。

高度の低下により危険を感じた副操縦士らはコックピットへ突入し、犯人を取り押さえ事件は解決した。
だが機長は搭乗していた医師により死亡が確認され、日本のハイジャック史上で初めて死者が出た事件となった。

犯人は統合失調症で薬を大量に処方されていた飛行機マニアで、ハイジャックの動機として「宙返りやダッチロールをしてみたかった」などと述べた。
犯人には無期懲役の刑が下されている。

なお副操縦士らのコックピット突入がなければ、全日空61便は八王子南部に墜落していたものと想定されている。

9月8日|池袋通り魔殺人事件発生


池袋通り魔殺人事件とは、東池袋の東急ハンズ前で23歳の男が通行人を襲い、2人を殺害・6人に重軽傷を負わせた事件である。
男性は次々に人を切りつけ、池袋東ロータリーで通行人に取り押さえられた。

犯人は進学校の高校へ進むが、両親がギャンブルで数千万円の借金を残して失踪し、借金取りの対応に迫られる毎日を過ごした。
その後は職を転々とし、アメリカへ短期渡航、帰国後働きながらの大学進学も考えたが費用面で挫折、人生に絶望し犯行に及んだ。

犯人は死刑判決が確定している。

9月29日|下関通り魔事件発生


下関通り魔事件とは、山口県下関市で加害者が乗用車で駅構内に侵入し、5人が死亡、10人が負傷した事件である。

加害者はレンタカーの乗用車でJR下関駅構内へ侵入、暴走して7人をはねて車を降り、包丁を振り回しながら8人を切りつけた。
犯人は駅員に取り押さえられ、現行犯逮捕された。

犯人は九州大学を卒業し、一級建築士の資格を取得し設計事務所を立ち上げたが経営が傾き廃業、その後軽トラックで運送業を開始するも台風でトラックが冠水し、使用不可能となった。
男は責任が社会にあると考え、犯行に及んだ。
通り魔事件は9月8日の池袋通り魔殺人事件を意識したと述べている。

犯人は2012年3月27日に死刑が執行されている。

10月26日|桶川ストーカー殺人事件発生


桶川ストーカー殺人事件とは、女子大生が元交際相手を含む5人の男性たちから嫌がらせ行為を受け、桶川駅前で殺害された事件である。
埼玉県警のずさんな対応が大きな批判を呼ぶと同時に、この事件を契機として「ストーカー規制法」が制定された。

犯人と被害者はゲームセンターで知り合い交際を開始したが、犯人は身元や年齢を偽っていた。
被害者はブランド品などを頻繁に貰ったことや、本名が記載されたクレジットカードを発見するなどし不安を募らせた。

加害者男性は無許可でファッションヘルスを運営する裏社会の実業家であり、次第に被害者を恫喝するようになる。
やがて加害者は被害者宅を訪れ、嫌がらせを行うなど被害は家族にも及んだ。

被害者一家は、警察に被害を申告するが脅迫や恐喝とは認めず、また告訴を取り下げさせるよう被害者家族に促すなど何もしようとはしなかった。

加害者は被害者からブランド品の返品されたことで逆上し、殺害を決意、元暴力団員の男に対し2000万円の報酬で殺害を依頼した。
元暴力団員の男や別の殺害実行役、見張り役の男らは10月26日に桶川駅前で被害者を刺殺した。

一方指名手配となった実行元の加害者男性は翌年1月27日に北海道で自殺、実行の男らには無期懲役らの刑が下った。
またずさんな対応をした警察からは3人の懲戒免職者を含む15人の処分者が出た。

11月11日|成田ミイラ化遺体事件発生

シェアチューブより引用

成田ミイラ化遺体事件とは、自己啓発セミナー団体の代表が頭を手で軽く叩く「シャクティパット」という方法で治療を試み、治療を受けていた男性を死亡させた事件
死亡した男性に対しセミナー代表は「まだ生きている」と主張し、男性家族もそれを信じた。

セミナー団体の代表が記者会見で「定説」として「男は司法解剖されるまで生きていた」と主張したため、その異常性からワイドショーが大きく報道した。

死亡した男性家族には執行猶予付きの、セミナー団体の代表には懲役7年の刑が確定している。

11月18日|1999年胡子講暴挙事件発生


1999年胡子講暴挙事件とは、広島三大祭りの1つである「胡子講(通称えべっさん)」で暴走族と警官隊が衝突した事件である。
TV放送でその模様が全国に放送されたことで、広島県内の暴走族の実態が広く知られることとなった。

広島のえべっさんは暴走族にとって、卒業式をみなす意味もある一方、その姿を見て暴走族に入りたがるものや暴力団とのつながりも指摘され、暴走族が歩行者天国を占拠していたため問題となっていた。
そこで広島県警は1999年にえびすこうで暴走族を一斉取り締まりすることとなり、3日間の開催期間内で80人の逮捕者を出す大きな衝突となった。

2000年移行、祭りでの歩行者天国が中止となり以降は大きな混乱は起きていない。

12月4日|栃木リンチ殺人事件発生


栃木リンチ殺人事件とは、栃木県警警部補を父に持つ犯人が被害者を拉致・監禁し、火をつけるなどしリンチを行い、絞殺して殺害した事件

加害者は日ごろから日産社員の男性などを恐喝していたが、日産社員の男性が身代わりとして性格がおとなしい被害者を紹介した。
犯人は被害者を脅し、サラ金からお金を借りさせるなどする一方、熱湯をかける・殺虫スプレーにライターの火を点け浴びせるなどのリンチを行った。

被害者の家族は栃木県警に捜査を依頼するがとりあってもらえず、自力で監禁・暴行の事実をつかんだがそれでも警察は動かなかった。
これは主犯格の父親が警部補であったため、事実を隠蔽しようとした疑いがもたれている。

主犯の加害者・日産社員の男性には無期懲役の判決が下された。

12月21日|京都小学生殺害事件発生、別名(てるくはのる事件)


京都小学生殺害事件とは、小学2年生の児童が校庭で遊んでいたところ、覆面をした若い男性にナイフで刺殺された事件のことである。
犯行現場に「私を識別する記号はてるくはのる」と書かれた文書が残されていたことから別名「てるくはのる事件」と呼ばれる。

警察は学校教育に不満を抱いていた予備校生が犯人と断定し、予備校生は自宅近くの公園で捜査員と話をしたが、逃走しマンションの屋上から飛び降り自殺した。

なお「てるくはのる」の意味は次の通りとされる。

捜査員が男性宅からの押収品を分析したところ、「名言名句416ページ」と書かれたメモが発見された。同室の本棚にあった名言集の416ページには、「か行」索引があり、その文言の末尾の文字を1つずつ拾うと「てるくはのる」となった。そのため、「てるくはのる」には特に深い意味はないと断定された

WIkipediaより引用

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