1990年(平成2年)の出来事やニュースを解説

ニュース・出来事・スポーツ

この記事では1990年(平成2年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

1990年(平成2年)の主要ニュース

2月18日|第39回衆議院総選挙が開催


第39回衆議院選挙では自民党が予想を覆し圧勝した。

1989年の参議院選挙では、消費税導入後初の選挙となったが、第一党の自民党が敗北し社会党が大躍進し、社会党党首の土井たか子の「山は動いた」発言が流行語になっていた。
味をしめた野党は参議院選挙を再現するため、消費税撤廃を争点とした選挙戦を第39回衆議院総選挙でも展開する。

選挙では自民党の苦戦が予想されていたが、消費税導入から1年が経過し、国民はすでに消費税導入に反対する者が激減していた。
また自民党はバブル景気の現体制を維持するよう有権者に訴えたことや、社会党が資金難により候補者を多数擁立することができなかった。

このような要因により自民党は議席を減らしたものの、275議席の絶対安定多数を獲得し、2月28日に第二次海部内閣が発足した。

またこの選挙ではオウム真理教の麻原彰晃が「真理党」を結成し出馬、オウムソングが話題となったが落選している。

4月1日|大阪市で国際花と緑の博覧会が開幕


国際花と緑の博覧会は、大阪市の鶴見緑地で行われた国際博覧会であると同時に、アジア初の国際園芸博覧会でもある。
ウォーターライド転落事故などの不祥事があったが、来場者数2312万6934名を達成し、特別博覧会史上最高記録を達成した。

マスコットキャラクターは応募総数9603点の中から花ずきんちゃんが選ばれ、声優には当時若手だった林原めぐみが選ばれている。

会場内施設は野原のエリア、街のエリア、山のエリアに別れてお、りいちょう館、JT館、サントリー館など企業や各種団体が主催する大規模なアトラクションや施設などが出展された。
開幕2日目にはジャスコ・イオングループが出展していたアトラクション、ウォーターライドに転落事故が発生し、24名が重軽傷を負う事故が発生し3ヶ月間運行を中止した。

しかし最終的には日本で行われた国際博覧会の中でも1970年の大阪万博に次ぐ来場者数を記録し、大成功となった。

6月29日|礼宮文仁親王が川嶋紀子と結婚、秋篠宮家を創設


1989年に婚約の記者会見が行われた、文仁親王と川嶋紀子の結婚の儀が執り行われた

二人の出会いは学習院大学内の書店で、サークル活動を通して交際を深めた。
学習院大学教授の娘である川嶋紀子と文仁親王とでは身分が違いすぎるとの声や、1989年1月に崩御された昭和天皇の喪服期間中での婚約記者会見であったことから反対の声もあがった。

しかし文仁親王の川嶋紀子に対する考えは変わらず、ご成婚に至った。

8月21日|京大の森重文教授がフィールズ賞を受賞

つれづれなるままの数学より引用

フィールズ賞とは、数学界のノーベル賞とも呼ばれ、若い数学者の業績を評価しさらなる研究を推進させる目的で1936年に創設された賞である。
日本人の受賞者は1954年の小平邦彦、1970年の広中平祐、そして1990年の森重文の3人である。

森重文は「数学の天才」と呼ばれた男性で、京都大学を卒業後、ハーバード大学助教授を経てコロンビア大学客員教授に就任していた。
コロンビア大学在籍中に「三次元代数多様体の極小モデルの存在証明」に成功し、フィールズ賞を受賞した。

数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞は、2020年現在森を最後に日本では受賞者が出ていない

12月2日|TBS記者の秋山豊寛が日本人初の宇宙飛行となる


1990年、日本人が初めて宇宙へ旅立った。
日本人初の宇宙飛行士に選出されたのは、TBS記者の秋山豊寛であった

TV放送局のTBSがソビエト連邦の宇宙総局と「日本人のミール訪問に関する協定」に調印したことで、TBS社内で宇宙飛行士への応募が行われ、手を挙げた社員の中から秋山豊寛と菊池涼子が選出された。
二人は1年にわたる宇宙飛行士訓練センターでの訓練を経たが、秋山が日本人として初めて宇宙に旅立つことが決定した。

日本人初の宇宙飛行士はのちに宇宙へ旅立った毛利衛となる予定であった。
しかしアメリカでチャレンジャー号が爆破事故を起こし、乗組員全員が死亡するという事故が発生し、毛利の宇宙への飛行が遅れたことで、秋山が初の日本人宇宙飛行士となったのである。

秋山が地球を離れ、ソ連にいたTBSアナウンサーに対して初めて発した第一声は「これ、本番ですか?」であった。
TBSでは連日特番が組まれ、秋山が宇宙へ旅立ってから帰還するまでを放送し、高い視聴率を得ることに成功した。

1990年(平成2年)の文化・芸能ニュース

1月7日|「ちびまる子ちゃん」放送開始

フジテレビHPより引用

ちびまる子ちゃんは1986年から「りぼん」に掲載されていた漫画であり、一部で絶大な人気となっていた。
しかし1990年にフジテレビでアニメが放送されると、その人気は一気に広がり社会現象ともなった

「ちびまる子ちゃん」の内容は作者であるさくらももこが小学校三年時に体験したエピソードを元に、作者の投影である主人公の「まる子」が、癖のあるクラスメイトや大人たちと繰り広げる日常を描いたコメディ作品である。
また作者のさくらももこは文才にも長けており、1991年エッセイ『もものかんづめ』は年間のベストセラーランキング2位となり(1位は宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』)、平成を代表する作家となった。

「ちびまる子ちゃん」のアニメの最高視聴率39.9%をたたき出し、2020年現在も国民的人気アニメとして放送を続けている。

1月16日|勝新太郎、ハワイオアフ島入国時にコカイン所持が発覚、逮捕


勝新太郎は大映(現・角川映画)の看板俳優であり、1961年に結婚した中村玉緒の夫としても知られている。

1967年に勝プロダクションを設立し、松平健を弟子として時代劇スターに育て上げるなどしたが、1978年にアヘンの不法所持で書類送検されるなどプライベートでは荒い生活をしていた。
また1989年には長男が撮影中に、役者を誤って真剣で切りつけ殺害してしまう事故が起きている。

勝は1990年にホノルル国際空港で、下着にマリファナとコカインを隠し持っていたところを現行犯逮捕された。
逮捕後の供述では「気が付いたら入っていた」と述べ、「今後はもうパンツをはかないようにする」「なぜコカインが手にあったのか知りたい」などととぼけた記者秋権を開き話題となった。

2月14日|ローリング・ストーンズが初来日公演を行う


ロリングストーンズはイギリスのロックバンドであり、世界中でも最も成功したロックバンドの一つにあげられている。
ローリングストーンズの初来日公演は1973年に一度予定されていたが、過去にメンバーらが大麻を所持していたという理由で外務省が入国を拒否し、初来日には至らなかった経緯がある。

入国拒否から17年が経過した1990年、ローリングストーンズの来日がワールドツアーの一環として決定、東京ドームで10日間にわたるライブが行われた
なお2月14日は日本記念日協会により「ザ・ローリング・ストーンズの日」であることが認定されている。

3月3日|ポールマッカートニー来日初公演


ポールマッカートニーはビートルズの元メンバーであり、世界で最も成功したポピュラー作曲家としてギネス記録に掲載されている。
そのポールマッカートニーが1990年に初来日公演を行った。

ポールマッカートニーが最初に来日を計画したのは1975年のことであった。
当時マッカートニーはビートルズ解散後に結成を行ったバンド「ウイングス」のボーカルとして活躍していたが、法務省が薬物所持歴を理由にビザを無効としたため、訪日は中止となっていた。
それから5年後の1980年に遂に来日したポールマッカートニーであったが、大麻所持で成田空港で摘発され、10日ほどの拘留ののち、強制送還されていた。

日本のブラックリストに掲載されたポールは、日本への入国が不可能となるが、ファンらの署名活動により法務局が1990年に入国許可を出す。

ポールが来日したのはビートルズとして来日して以来24年ぶりのことであり、公演中はビートルズ時代の曲も含め熱唱し、詰めかけたファンを感涙させた。

1990年(平成2年)の事件

5月12日|足利事件が発生


足利事件とはパチンコ店の駐車場から女児が行方不明となり、翌日に遺体で発見された事件であるが、容疑者として逮捕され有罪判決を受けた人物が19年後の2009年になり冤罪であることが明らかとなった事件として有名である

殺害された女児の下着に付いていたDNAと容疑者のDNAが一致したため、容疑者の菅谷利和が逮捕されたが、当時の技術では1000人に1.2人の確率でDNA型が一致する可能性があった。

逮捕された容疑者は取り調べ中の暴行や暴言により犯行を自白し、第一審の途中で否認に転じたが、2000年7月に無期懲役判決が確定し千葉刑務所に服役した。

2008年になり日本テレビが足利事件が冤罪の可能性である趣旨の報道を開始した。
2009年にそれを受けたDNAの再鑑定が行われ「同一人物のものではない」との鑑定結果が出たため、2009年6月4日に容疑者は釈放、2010年3月26日に行われた再審で、容疑者の無罪が言い渡された。

だが菅谷の父親は逮捕後にショックで亡くなり、母親も釈放の2年前に他界していた。
足利県警の自白強要や杜撰な捜査、DNA再鑑定を行わなかった最高裁などの不手際により一人の男性の一生が台無しとなった。
また菅谷さんが服役中に事件は時効となっている。

7月6日|神戸高塚高校校門圧死事件発生


神戸高塚高校校門圧死事件とは、遅刻を取り締まっていた教諭が、校門をくぐろうとした女生徒がいたにも関わらず校門を閉め、頭部を挟み圧死させた事件のことである

門扉の大きさは1.5メートル・重さ約230キログラムであり、教諭は8時半のチャイムが鳴ると同時に勢いを付けて門を閉めた。
駆け込んだ女子生徒が門と壁の間に挟まれ、頭蓋骨粉砕骨折などにより死亡した。

裁判では教諭の過失が問われ、禁固1年・執行猶予3年の有罪判決が下った。
また、遅刻者には校庭2週を走らせる、生理中の女性に水泳をさせるなど、学校の管理教育が事件の背景にあったとされる。

現在高校は運営を続けているが、Googleのレビューでは誹謗中傷が相次いでいる。

1990年(平成2年)のスポーツ

2月11日|マイクタイソンが東京ドームでジェームス・ダグラスに10回KO負け


マイクタイソンが東京ドームでジェームス・ダグラスに敗れ、1985年のプロデビュー以来初めての敗北を喫した。

世界中がタイソンのKO勝ちを予想していたこの試合だが、タイソンは試合前の練習から動きに精彩が無かった。
試合が始まっても体が重く、ダグラスの攻撃に劣勢を強いられる。

8ラウンド目にはタイソンのアッパーがダグラスを捉えるも、10カウント目の前に8ラウンドが終了してしまう。
最大の危機を回避したダグラスは、10回、コンビネーションパンチでタイソンをノックアウトした。

タイソンは、8回でダグラスがダウンした際にレフェリーのカウントが遅かったと抗議したが、これは認められなかった。

9月9日|テニスのピート・サンプラス、全米オープンで大会最年少優勝記録を樹立

ミドルエッジより引用

テニス史に残る名選手と言われているピート・サンプラスだが、彼はこの日19歳と28日で全米オープン優勝を果たし、大会最年少優勝記録を樹立した。

1988年、17歳でデビューしたサンプラスは、同年の全米オープンで早々とベスト4を果たす。
翌年には2回戦で前年優勝者であるマッツ・ビランデルを破る大金星をあげ、優勝を果たしたのはデビューからわずか3年目の出来事であった。

その後は1993年に初めての世界ランキング1位を記録し、2000年までのウィンブルドン選手権で7勝を達成した。

2003年に現役を引退し、2007年には国際テニス殿堂入りを果たしている。

10月21日|F1日本グランプリで鈴木亜久里が日本人初の3位入賞


F1日本グランプリで、鈴木亜久里が日本人初となる3位入賞を果たした。

1988年10月にF1デビューを飾った亜久里だが、初戦は16位、翌年にはシーズン全試合予備予選落ちと思うような結果を出せずにいた。

しかし、1990年にイギリスGPとスペインGPで立て続けに6位を記録。そして、日本GPでは見事3位を獲得したのである。

これは、2004年までアジア人ドライバーとして唯一の表彰台として歴史に残る記録であった。
同時に、日本GPにおいては2012年まで、3位以内に入った唯一の日本人ドライバーであった。

12月9日|福岡国際女子48キロ級で当時14歳の田村亮子が優勝


※田村亮子の試合映像は55秒過ぎから開始されます。

福岡国際女子48キロ級で当時14歳の田村亮子が優勝し、日本柔道界に衝撃を与えた。

小学生時代から全国トップレベルの実力を誇っていた田村だが、中学入学後はその実力に磨きがかかる。
練習や大会では高校生や大学生の実力者と肩を並べ、自分より二回りも大きい男子中学生を投げ飛ばしたこともあった。

この福岡国際では、準決勝で当大会の女王と言われていたイギリスのカレン・ブリッグスをわずか28秒で破ると、決勝では前年優勝者の李愛月に一本勝ちを決めた。

これ以降48キロ級で田村亮子は敵なしとなる

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