1992年(平成4年)の出来事やニュースを解説

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この記事では1992年(平成4年)のニュース・文化芸能・事件について解説しています。

目次

1992年(平成4年)の主要ニュース

1月31日|改正大規模小売店舗法が施行

日本経済新聞より引用

1992年に大規模小売店舗法が改正された。

大規模小売店舗法とは大規模な小売店舗、具体的にはイオンモールなどの大型なショッピングセンターなどの出店を実質的に規制する法律である。
大規模小売店舗法は、消費者の利益と中小小売店の利益のバランスを保つためのものであったが、既存の商店街や大型店の既得権益が守られる形となっており問題視されていた。

この法律が改正に至ったのはアメリカによる外圧があったためで、トイザらスの出店計画がままならないことが原因であった。
大規模小売店舗法の改正により、大規模なショッピングモールの出店規制が緩やかとなり、以降イオンモールなどの出店が加速するが商店街などは退廃が進んだ。

大店舗法は1998年に廃止され、「大規模小売店舗立地法」「中心市街地域活性化法」「都市計画法」などの「まちづくり3法」が制定・改正されている。

3月25日|ハウステンボスがオープン


ハウステンボスは長崎県佐世保市にある、オランダの街並みを再現したテーマパークである。

1992年に開業したハウステンボスは、1996年に380万人を記録したものの、その後来場者数が減少に転じ2003年に会社更生法の適用を申請し破綻した。
野村プリンパル・ファイナンスをスポンサーとし再生が行われたが、2008年の世界金融不況の影響により経営再建が厳しくなり、2010年に野村プリンシパル・ファイナンスはスポンサーを降りた。

2010年4月からエイチ・アイ・エスが中心となり経営再建が開始されると、金融機関との交渉で債務放棄を受けるなど財務改善が行われ、同年開業以来初の営業黒字に転換するなど経営状況が著しく改善している。

2020年現在も長崎を代表する観光地として盛況を維持している。

6月19日|PKO協力法が成立


PKO協力法とは国連などの決議による平和維持活動(Peace Keeping Operation)や人道的な活動を行う目的で、自衛隊を紛争国へ海外派遣するための法律である。

1991年の湾岸戦争以来、内戦の収拾後に国連主体の和平構築がなされるようになり、日本にも人的資源の提供が求められるようになった。
PKO法案の成立を受けて1992年にはカンボジアの国連カンボジア暫定行政機構へ、自衛隊が派遣された。

近年でもPKO活動は行われており、2012年から2017年には南スーダンの首都・ジュバで道路整備や横断歩道整備など、インフラ構築に自衛隊が人的貢献を行っている。

7月26日|参議院総選挙投票、自民党が復調し第一党を維持


1989年の参議院選挙で自民とは36議席と惨敗、土井たか子率いる社会党が大きく躍進していた。
1992年の参議院選挙は、自民党がどこまで議席数を回復できるかが注目されるとともに、PKO国会後の選挙であったためPKO法案の是非が問われた選挙となった。

選挙の結果は自民党が69議席を獲得し、社会党は大きく議席を減らす結果となった。
社会党が惨敗したのはPKO法案を巡り他の野党と連携をとることに失敗したからであると言われている。

9月30日|日本で初のホームページが公開される

ライブドアニュースより引用

日本で初のウェブサイトが立ち上げられたのは、1992年のことであり、茨城県つくば市にある『文部省高エネルギー物理学研究所』の森田洋平博士が日本で初めてのホームページを作成・公開した。

当時のインターネットは高度なコマンドを使用する必要があったが、スイスのCERN(セルン)研究員がWWWを開発、1992年にCERNに立ち寄った森田博士は「WWWのリンクで世界中の情報を結びつける」という概念に共感し、その場でHTMLファイルをサーバー上へ設置した。

その後CERNのリンク集に『文部省高エネルギー物理学研究所』が加えられ、初めてWWWのネットワーク上に日本のリンクが加わることとなった。
その後の急速なインターネットの普及は、我々の生活に大きな影響を与えることとなり、インターネットに繋がるためのデバイスであるパソコンやスマートフォンは生活必需品となっている。

10月14日|金丸信氏が議員辞職


金丸信が東京佐川急便事件を受けて辞職した。
金丸信は「政界のドン」と呼ばれた衆議院議員であり、政界に大きな力を持っていた。

東京佐川急便事件は、1987年当時に自民党次期総裁候補であった竹下登が、恩義のある田中角栄を裏切ったことで右翼団体から嫌がらせを受けていたたことに端を発する。

竹下は金丸信に相談し東京佐川急便の渡辺広康社長に、暴力団稲川会会長の石井隆匡との仲介を依頼する。
竹下は田中角栄邸を訪れ謝罪するために田中角栄宅を訪れ門前払いされるが、右翼団体からの嫌がらせはおさまった。
その後竹下が首相に就任したことにより、東京佐川急便の渡辺社長は政界とのコネクションが出来て喜ぶ一方、暴力団の石井とその関連会社に対して巨額の融資や債務保証を行うようになる。

やがてバブル経済が崩壊し、東京佐川急便が石井に対して貸し付けていた資金が焦げ付きはじめる。
東京佐川急便は負債が増大し倒産寸前となり、親会社である佐川急便へ吸収された。

金丸信は佐川急便から5億円の政治献金を受けていたことが1992年8月に発覚し、政治資金規正法違反により略式起訴されたが、金丸は政治資金収支報告書への記載漏れによる罰金だけにとどまった。
この顛末に世論の大きく反発し、金丸は衆議院辞職に追い込まれたのである。

1993年に金丸は政治資金を流用したとして逮捕され、刑事裁判中の1996年に脳梗塞で他界している。

10月23日|天皇、初の中国訪問


1992年、長期にわたる日中の歴史上初めて天皇陛下が中国を訪問した。

天皇の中国訪問は、中国からの天皇の訪問要請を受け日本が承認したのだが、日本側には「天皇訪中による日中間の戦後処理の完了」という意味があった。
一方で中国は1991年の天安門事件で国際社会から大きな批判を受けている最中であり、天皇の訪中によりイメージ改善を図りたいという目的があった。

保守派からは天皇を政治に利用することになると批判が起こったが、宮澤喜一は半年をかけ天皇の訪中を成功させている。

1992年(平成4年)の文化・芸能ニュース

4月25日|尾崎豊が肺水腫のため死去、26歳


尾崎豊は1992年の4月26日、自宅マンションから500メートルほど離れた場所で、全裸で傷だらけで倒れているところを住人に発見された。
病院では専門家に診てもらうよう告げられたが、自宅マンションへ戻った尾崎は容態が急変し、肺水腫で死亡した。

尾崎豊はシンガーソングライターであり、1983年12月に「15の夜」でデビュー、10代の頃には若者の気持ちを代弁した「反体制」「自由」をテーマに歌い上げ大きな支持を得ていた。
しかし20歳になり曲を生み出せないことに苦悩し、無期限活動休止し、やがて覚せい剤取締法違反で逮捕・自殺未遂を図るなど、精神的に追いやられていく。

尾崎の死因については、極度の飲酒により肺に水が溜まる肺水腫であると診断されたが、1994年になり司法解剖時に覚せい剤が検出されていたことが明らかとなり、死因について様々な憶測がなされた。
肺水腫の原因は覚せい剤の大量服用により急性メタンフェタミン中毒となったためであるが、全身に傷があることから他殺であるという説も流れた。

2011年になり尾崎豊が持っていたハンドバックにあった遺書が文芸春秋に公開され、「先日からずっと死にたいと思っていました」などと書かれていたことが明らかとなった。

5月22日|伊丹十三が「ミンボーの女」公開1週間後に襲撃を受ける


伊丹十三は1984年、51歳で俳優から映画監督へ転身し『お葬式』でデビューすると、日本アカデミー賞など30もの賞を受賞した。
その後も『タンポポ』『マルサの女』『ミンボーの女』などの傑作を輩出し、一躍有名映画監督となる。
1992年に大ヒットした『ミンボーの女』はヤクザに脅されるホテル側が、ヤクザに屈せず法律の知識を活かしてヤクザを撃退するという物語であった。

しかし映画の内容に激怒した山口組系後藤組の男らは、映画公開1週間後に自宅近くで伊丹十三を襲撃し、全治3か月の重傷を負わせ逮捕された。
一方の伊丹十三は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく」と宣言した

1993年にも公開中の映画館のスクリーンが切り裂かれる事件など、伊丹十三に対する脅迫や嫌がらせが続くこととなる。

伊丹十三は1997年にマンションからの飛び降り自殺で他界するが、暴力団の関与も取りざたされている。

7月28日|5月27日に死去した長谷川町子氏に国民栄誉賞が受賞される

宮澤喜一内閣は家族漫画を通じて戦後日の本を勇気付けたとして、1992年7月に国民栄誉賞が授けた。

長谷川町子は「さざえさん」「いじわるばあさん」などの著者として知られる漫画家である。

1992年に冠動脈硬化症による心不全のため死去した。
直接の原因は机から落ちて全身を打撲したことによるもので、打撲事故のあとも通院治療を継続していたが、徐々に衰弱し回復することなく他界した。

9月9日|明石家さんまと大竹しのぶが離婚


1988年に結婚しビッグカップルとなった、明石家さんまと大竹しのぶが1992年離婚した
二人は1986年に放送された男女7人夏物語およびその続編の男女7人秋物語で共演し、密かに付き合い、結婚していた。

結婚当初は、大竹しのぶが専業主婦となる約束で家庭に入ったのであるが、女優復帰願望が抑えられなくなり女優へ復帰することとなる。
明石家さんまもそれを認めたものの、大竹しのぶが後ろめたさを感じ口論になることが増えたため離婚に至った。

4年間という夫婦としては短い期間であったが、ふたりの間には長女のIMALUが誕生している。
離婚後も二人はTVで共演するなど、お互いの関係は良好なようである。

戸籍原本にバツが記されることから、明石家さんまがギャグで額に「×」を記し記者会見に臨んだ。
それ以来離婚した人間のことをを「バツイチ」と呼ぶ新語が誕生している。

11月27日|大相撲・貴花田と女優の宮沢りえが婚約会見


貴花田はのちに横綱となる力士であり、1992年1月に初優勝を飾り兄の若乃花と「若貴人気」という言葉を流行させるほどの人気力士であった。
一方、宮沢りえは1992年当時当時絶大な人気を誇るタレントで、1991年に発売されたヌード写真集「Santa Fe」は年間書籍ベストセラー第1位となった。

人気の絶頂期を迎えていた二人は婚約会見を開いたのだが、2か月後の1月27日に破局
宮沢りえは「人生最高のパートナーになれなかった」、貴花田は「愛情がなくなりました」とコメントを残した。

後にこの婚約破棄は宮沢りえの母親が反対したことが理由であることなど、個人同士の感情ではなく両家同士の折り合いが付かなかったことが原因とされている。
特に宮沢りえが結婚した場合、のちに女将となることが既定路線であったため、芸能界で活動することは難しくそのことに宮沢の母が難色を示したものとされている。

12月31日|チェッカーズが紅白歌合戦への出場を最後に解散


チェッカーズは1980年代に活躍した男性7人組からなるポップスバンドであり、音楽作品がオリコンチャートにランキングするだけでなく、髪型やファッションなども当時の若者に大きな影響を与えたグループとして知られている。
チェッカーズは1984年にセカンドシングル「涙のリクエスト」をヒットさせて以来、解散までの9年間紅白歌合戦へ連続出場した。

解散に至った理由は、藤井フミヤと高杢禎彦の確執が原因とされている。
2003年に高杢は「チェッカーズ」という暴露本を出版しており、終始藤井フミヤを批判する内容となっている。

チェッカーズの解散を主張したのは藤井フミヤであり、メンバー内で意見が割れたが7人中4人が賛成したため解散が決定し、1992年の大晦日の紅白歌合戦をもってチェッカーズは解散した。

1992年(平成4年)の事件

3月5日|市川一家4人殺人事件発生


市川一家4人殺人事件とは、犯人が1か月前に強姦した15歳の少女の家に犯人が押し入り、少女の家族4人を殺害した事件である。
事件の残虐性が社会に衝撃を与えたと共に、当時19歳だった少年は死刑が確定し、平成の少年犯罪では初の死刑確定・執行となったことでも重要な出来事と言える。

加害者少年は暴力団と女性関係のトラブルを起こし現金200万円を要求されたが、その金品を強奪する目的でマンションへ侵入し、少女の両親・祖母・妹を殺害した上、殺害現場で少女を強姦した。
加害者少年は強盗殺人1か月前に自転車に乗っていた少女を強姦し、その際所持していた生徒手帳の住所・氏名を控えていた。

犯人は2017年12月19日に死刑が執行されている。

7月6日|エホバの証人輸血拒否事件


エホバの証人輸血拒否事件とは、エホバの証人信者が宗教上の理由で輸血を拒否したが、医師が信者に無断で輸血を行ったため病院・医師相手に損害賠償を求めた事件

信者は悪性の肝臓血管腫で輸血をせずに手術することが不可能な状態であったが、宗教上の理由により輸血を拒否していた。
医師らは輸血を行わず手術を行うが、緊急の際に備え輸血の準備を行い手術に臨んだ。

しかし腫瘍摘出時に出血多量となり、生命を救うために患者に対し説明を行うことなく輸血を行った。

裁判では医師・国に対して55万円の支払いを命じる判決が下され、判決理由は以下のとおりであった。

「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血をともなう医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、Aが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血をともなわない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことをB医師らが知っていたなど、本件の事実関係の下では、B医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定しがたいと判断した場合には、Aに対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針をとっていることを説明して、医科研への入院を継続したうえ、B医師らの下で本件手術を受けるか否かをA自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である」

Wikipediaより引用

 

「ところが、B医師らは、本件手術に至るまでの約1か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、Aに対して医科研が採用していた右方針を説明せず、同人および被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。そうすると、本件においては、B医師らは、右説明を怠ったことにより、Aが輸血をともなう可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである」

Wikipediaより引用

11月23日|風船をつけたゴンドラでアメリカを目指した男性が、行方不明となった(風船おじさん)


風船おじさんとは、風船をつけたゴンドラでアメリカ大陸を目指した男性が、琵琶湖から出発したがその後行方不明となった事件である。

風船おじさんはピアノ調律業を営んでいたが、雀荘やパブレストランの経営を開始し倒産した。
多額の負債を抱えた風船おじさんは、ゴンドラ「ファンタジー号」で太平洋を横断することで借金を返済する計画をたてる。

しかし風船で飛び立ち民家の屋根に不時着するなどの事故を起こし、マスコミからは距離を置かれてしまう。
11月23日に琵琶湖から太平洋横断を目指し旅立つも、24日深夜に宮城県沖で確認されたのを最後に、現在に至るまでその姿は確認されていない

12月7日|オーストラリア花嫁失踪事件発生

JapaneseClassより引用

オーストラリア花嫁疾走事件とは、結婚後の生活不安から姿を消した女性が、犯罪に巻き込まれたと勘違いされて騒動となった事件
マスコミによる過剰報道が問題となった。

大阪市出身の女性は、婚約相手と11月28日に挙式を行い、29日からオーストラリアへ出発した。
しかし12月7日に女性は失踪する。
男性は現地警察へ届け出したが、女性から宿泊先のホテルに「自分のことは探さないで欲しい」と電話があった。

現地警察は誘拐されたと発表し、日本でもワイドショーが大きくこの事件を報じ、実名報道がされた。

11日に1人で宿泊先に滞在していた女性を現地警察が発見し、女性は以前より結婚に不安を抱えていたため失踪したことが明らかとなった。
事件性が無いことで一般紙は扱いを小さくしたが、ワイドショーでは報道が続けられた。

その後二人は離婚をしている。

1992年(平成4年)のスポーツ

1月26日|大相撲、貴花田が史上初の10代で優勝を果たす


大相撲の貴花田が1月場所で14勝1敗の成績をあげ、史上初の10代での優勝を果たした。
優勝当時は19歳5か月で、幕内力士としての優勝であった。

入門当初からその素質が注目されていた貴花田だが、1990年の5月場所で新入幕を果たすと、翌1991年5月場所では横綱・千代の富士に勝利し、平幕の力士が横綱を破った史上最年少記録を打ち立てていた。

10代で優勝を果たした貴花田は、同年9月場所でも優勝を果たし、史上最年少の年間最多勝を記録した。
翌年1月には大関に上り詰め、1994年の11月場所では横綱に昇進している。

2月8日|アルベールビルオリンピック開幕


日本は金1、銀2、銅4

7月25日|バルセロナオリンピック開幕


日本は金3、銀8、銅11

7月27日|岩崎恭子が競泳女子200メートル平泳ぎで金メダル


競泳史上最年少(14歳)の金メダリストとなった

8月16日星稜高校の松井秀喜が甲子園で五打席連続敬遠、試合は3-2で明徳義塾の勝利


第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾対星稜高校にて、明徳義塾のエース河野和洋が、星稜高校の4番松井秀喜を全5打席敬遠するという出来事が起きた
当時の松井は高校生No.1スラッガーとして注目を浴びており、高校通算本塁打60本が達成間近となっており、星稜高校も優勝候補に挙げられていた。

松井への敬遠に対し、スタンドからはどよめきが湧き、試合終盤には物やゴミが大量にピッチに投げ込まれた。
試合は3-2で明徳義塾が勝利し、試合終了後に多くの選手は握手を交わさず立ち去った。

明徳義塾高校の戦術には賛否両論が沸き起こり、社会問題にまで発展した。

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