1984年(昭和59年)の出来事やニュースを解説

この記事では1984年(昭和59年)に起きた芸能・文化・スポーツ・事件・事故などを紹介・解説しています。

1984年の主要ニュース

1月9日|日経平均株価が初めて10,000円の大台を突破

ダウ平均マンより引用

日経平均株価が、1949年5月に日本経済新聞社によって発表開始されて以降、初めて10,000円台を突破した。

日経平均株価は、東京証券取引所第一部に上場する株式のうち225銘柄を対象にしているため、日経225や日経平均などとも呼ばれている。
また日本で最も普及している株式指標であるため、日本の株価の動向を知るうえで欠かせない指標である。

日経平均株価はこの年の1月9日に10,000円を突破してからも、更なる上昇見せ、バブル経済へと進んでいく。
1990年には最高値となる38,915円を記録した。

2月12日|植村直己が世界初・冬季のマッキンリー山単独登頂成功するが・・


登山家の植村直己が、世界で初めて冬のマッキンリー単独登頂に成功した。

植村は、1970年に日本人初となるエベレストの登頂に成功し、同年には世界初の五大陸最高峰登頂者となった。
その後も、犬ぞりによる北極点の到達やグリーランドの横断など数々の偉業を成し遂げる。

そんな植村が1984年のこの日、更なる偉業となる、冬のマッキンリーへの世界初となる単独登頂に成功したのだ。
偶然にも、この日は植村の43歳の誕生日であった。

しかし植村は下山途中に連絡が取れなくなり、消息不明のまま捜索も打ち切られてしまった。

のちの同年4月19日、植村の功績に、国民栄誉賞が贈られた。

11月1日|日本で新紙幣が発行される


1984年のこの日、千円、五千円、一万円の新紙幣が発行された。

3つのデザインが同時に刷新されるのは、初めてのことであった。
当時一万円札と五千円札の肖像画だった聖徳太子は、それぞれ福沢諭吉と新渡戸稲造になり、千円札は初代首相の伊藤博文から夏目漱石になった。

このデザインは2004年に変更されるまでの20年間使用されることになる。

12月7日|マハラジャ麻布十番店「MAHARAJA TOKYO」がオープン

MAHARAJA WEB SITEより引用

NOVA21グループが日本全国に展開した高級ディスコチェーン店、マハラジャの麻布十番店「MAHARAJA TOKYO」がオープンした。

1982年に大阪のミナミに1号店をオープン以降、7店舗目となった麻布十番店は、社会現象になるほどの大人気となった。
マハラジャは、全盛期には全国に数十店舗が展開され、ハワイのホノルルにも店を出すほどであった。

大理石・真鍮・装飾品を用いられた内装や豪華な料理、徹底したサービスなどにより、これまでのディスコとは一線を画す高級感を誇っていたマハラジャは、1980年代末から1990年代初頭のバブル景気期に高級ディスコブームを築いた。

12月19日|トルコ風呂がソープランドに改称

ミドルエッジより引用

東京に留学していたトルコ人留学生により、性風俗店の名称として使用されていた「トルコ風呂」が、「ソープランド」に改称された。

トルコ風呂は、元々はごく一般的なトルコの公衆浴場の名称だが、1960年代後半から日本では性風俗店の通称として使用されるようになっていた。

さらにトルコ風呂は「トルコ」と略されることから、トルコから真っ先に性風俗店が連想されるような状況に、当時から日本を訪れたトルコ人から批判の声があった。

これにショックを受け、改名運動を行ったのがトルコ人留学生だ。
彼らの抗議の末、「トルコ風呂」の名称は撤廃され、公募の結果「ソープランド」に改称された。

1984年の文化・芸能ニュース

6月16日|「8時だョ!全員集合」生放送中に停電が発生


TBS系の人気番組「8時だョ!全員集合」の生放送中に、停電が発生するというハプニングが起きた。

番組開始を告げるいかりや長介の掛け声と共に、会場の電気が落ちたのだ。

幸いにもマイクやカメラは外部の電源車に繋いでいたため、番組は止まることなく、懐中電灯を使ったゲスト紹介などでその場をしのぎ切り、8時9分に電気は復旧した。

突然のハプニングに、スケジュールがだいぶズレてしまったが、何とか番組は終了した。
この日の視聴率は、同時間帯に放送していた他局の人気番組が休みだったこともあり、1984年度第2位となる26.2%を記録した。

9月13日|漫画家のちばあきおが自殺

NAVERまとめより引用

1984年のこの日、人気漫画家のちばあきおが、仕事場2階で首を吊り、自ら命を絶った。

ちばあきおは、「キャプテン」、「プレイボール」などの代表作で人気を集めた漫画家で、長男は「あしたのジョー」等で知られるちばてつやである。

自殺の原因は、躁うつ病を患っていたことだと言われている。
人気も高かったうえ、41歳とまだ若い漫画家の死は、世間を騒然とさせた。

1984年の主な事件

1月10日|城丸君事件発生


城丸君事件とは、1984年に札幌市で起きた小学生の男児失踪・死亡事件のことであり、容疑者の女が完全黙秘を貫いたことにより無罪となったことで知られている

1月10日に資産家の子供である城丸君が行方不明となり、アパートの階段を上がっていたとの目撃証言から、アパートに住む29歳のホステスを事情聴取するが有力な情報は得られなかった。

2年後の1986年に、ホステスの嫁ぎ先が出火し遺体としてホステスの夫が死亡したが、夫には1億円の生命保険金がかけられていた。
焼け跡をホステス夫の弟が整理していると、人骨が発見されたため警察に届け出を行い、ホステスの女を事情聴取したが人骨の身元が不明なこともあり捜査は断念された。

さらに2年後の1988年、焼けた人骨からもDNA鑑定が可能となり、人骨をDNA検査するとその人骨は城丸君のものであることがわかり、警察はホステスの女を殺人罪で起訴した。

しかし女は取り調べに対しすべて黙秘し、証拠もないことから殺意があったかを立証することは困難となり動機もなく、また死体遺棄などの罪は時効が成立しておらず、結果として全ての罪に対し無罪判決が下った。

取り調べの際のポリグラフでは特異反応を示すなど、黒に近いグレーであったため、被害者遺族などから司法判決に対して批判的なコメントが寄せられた。

5月5日|夕張保険金殺人事件発生


夕張保険金殺人事件とは北海道で発生した火災保険・生命保険の保険金を目当てとした夫婦による放火殺人事件であり、恩赦による減刑を期待して控訴を取り下げたが、結果として夫婦2人の死刑が執行された事件である。

夫婦は炭鉱業の作業員を斡旋する会社を経営していたが、1981年に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故で、従業員にかけていた多額の保険金が会社に振り込まれた。

1984年になると夫婦は共謀し、従業員の1人に会社宿舎を放火させ、子供2人を含む6人を焼死させる。
夫婦は開催保険・死亡保険金1億円超を手にし、現場検証では、宴会に使用した石油ストーブが火災の原因とされていた。

しかし火災から2か月後、放火を行った従業員が事件の真相を警察に告白したため夫婦は逮捕された。
従業員は約束してた500万円を夫婦からもらえず、そのうち自分が殺されると恐れていたのだった。

裁判では実行犯に無期懲役、夫婦には死刑が言い渡され夫婦は控訴したが、1988年に控訴を取り下げた。
控訴を取り下げたのは1988年に昭和天皇が重篤であり、天皇が崩御すれば恩赦により刑が軽減されると考えたからである。

しかし崩御による減刑は無く、1997年に夫婦の死刑が執行された。

3月18日~|グリコ・森永事件


グリコ・森永事件とは1984年~1985年にかけて起きた一連の企業脅迫事件のことで、別名「かい人21面相事件」とも呼ばれている。

グリコ社長誘拐と食品会社への脅迫

1984年3月18日、犯人2人(犯行は車の運転手の合計3人)が江崎グリコ社長の江崎勝久宅へ侵入し、江崎を誘拐した。

翌日、江崎グリコ取締役宅に犯人から電話があり、指定した場所へ取締役が向かうと脅迫状が置かれていた。
脅迫状には現金10億円と金塊100kgを要求する旨が書かれており、グリコはそれを用意したが受け渡し場所に犯人は現れなかった。

3月21日に江崎が自力で脱出、大阪貨物ターミナルで保護された。

しかしその後もグリコへの脅迫状は続き、同時にマスコミ各社に挑戦状が送られてくるようになる。
挑戦状では「かい人21面相」を名乗ったことから、一連の事件が「かい人21面相事件」と呼ばれるようになる。

また「かい人21面相」はグリコだけでなく、丸大食品・森永製菓・ハウス食品・不二家・駿河屋などの食品会社を相次いで脅迫した。

恐怖の青酸化合物混入

一般消費者を恐怖に陥れたのが、スーパーやコンビニに青酸ソーダを入れるという出来事だった。

1984年5月には「かい人21面相」からマスコミに送られた「グリコのせい品に せいさんソーダ いれた」という脅迫状が届いた。
1984年10月には大阪・京都・兵庫・愛知のスーパーやコンビニに「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙が貼りつけられた森永製品が置かれているのが発見され、菓子には青酸ソーダが混入していた。
また1985年2月13日にはバレンタインデー粉砕と称し、東京と愛知で「どくいり きけん」と書かれた青酸入りチョコレートが発見され、青酸ソーダが入っていないものには「どくなし あんしん」と書かれていた。

犯人取り逃しと終焉

各社に対し何度も送られていた脅迫状には現金を受け渡すよう指示があり、現場では何度も「キツネ目の男」が目撃されていたが、実際に現金の受け渡しは一度も行われず、逮捕もされなかった。
ハウス食品脅迫事件では、1984年11月の現金受け渡しに際し滋賀県で不審車両が発見されており、パトカーは不審者とカーチェースを繰り広げたが取り逃がした。
1985年8月に不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が退職の日に焼身自殺を行った。

1985年8月7日には「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」と終息宣言が出され、その理由は焼身自殺した本部長への香典代わりというものだった。

こののち犯人グループからの脅迫は無くなり、2000年2月13日に全ての時効が成立した。
結局のところ、犯人は食品会社と世間を騒がせただけで表向きは何の利益も得ておらず、事件は終息した。

1984年の主なスポーツ

6月9日|テニスのナブラチロワ、史上5人目、女子3人目となるグランドスラム達成

ミドルエッジより引用

アメリカの女子テニスプレイヤー、マルチナ・ナブラチロワが、史上5人目、女子史上3人目となるグランドスラムを達成した。

チェコスロバキアで生まれ育ったナブラチロワだが、アメリカに亡命し、米国市民権を取得した1981年以降はアメリカ国籍でプレーしていた。

彼女が無敵の強さを発揮し始めたのは、1981年の全豪オープン優勝がきっかけだ。
その後は1982年に全仏オープンとウィンブルドンを制し、翌年1983年のウィンブルドンから1984年の全米オープンまでは4大大会6連勝を記録した。

その後も、公式戦74連勝、ウィンブルドン選手権9勝など、数々の歴史的記録を打ち立てた。

10月9日|柔道の山下泰裕が国民栄誉賞を受賞

気ままにkakikukekonより引用

柔道家の山下泰裕が、これまでの輝かしい活躍により国民栄誉賞を受賞した。
スポーツ界からの受賞は、プロ野球の王貞治に次ぐ史上2人目であった。

1980年、当時全日本選手権4連覇を達成していた山下だが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するため日本はオリンピックをボイコットした。やり切れない想いの山中は、涙ながらにマスコミに訴えた。

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、悲願の出場を果たし、2回戦で肉離れをするも決勝まで全て1本勝ちで優勝した。
4年前の雪辱を果たした山下の顔は、喜びの涙でいっぱいだった。

なお、全日本選手権では引退までに9連覇を達成しており、203連勝を記録している。

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