この記事では1983年(昭和58年)に起きた芸能・文化・スポーツ・事件・事故などを紹介・解説しています。
1983年の主要ニュース
4月15日|東京ディズニーランドが開園
1983年4月15日、千葉県浦安市舞浜に東京ディズニーランドが開園した。
長野県・大鹿、静岡県・清水市なども候補地として挙がっていたが、東京都心に近く、雨が少ない乾燥した場所であることから、舞浜に日本最大のリゾートパークを開園することとなった。
開園前から多くの国民が期待に胸を膨らませ、2日前から並んでいた埼玉県の男性を先頭に、当日は約3千人の列ができ、38日間で100万人が来場するほどの大反響となった。
なお経営にはディズニー社が出資しているわけではなく、ライセンス契約で運営を行っている。
これは全世界でも日本だけである。
5月26日|日本海中部地震が発生
日本海中部地震は、北海道、東北、中部の日本海側を中心に発生した、巨大地震である。
地震発生のエネルギーを表すマグニチュードは7.7。この巨大地震により、家屋の全半壊は3049棟、船舶沈没・流失は706隻におよんだ。
さらに10mを超える津波の発生により、死者104名の大きな被害を生むこととなってしまった。
当時日本海側最大級といわれたこの地震は、特に青森や秋田で大きな被害を生んだ。
10月3日|三宅島が噴火
東京都の南175km、古くから火山活動が盛んだった三宅島でこの日、大規模な噴火が発生した。
16:38に最初のマグマ水蒸気爆発が発生し、以降翌日未明まで爆発や噴火が相次いだ。
これらの火山活動により岩塊や火山礫、火山灰が近隣に降下し、さらに溶岩も流出。
約400棟の住宅が埋没・焼失し、山林耕地等にも被害が発生した。
1200人もの住民が避難することとなったが、幸い人的な被害はなかった。
10月12日|ロッキード事件で逮捕された田中角栄元首相に有罪判決
ロッキード事件で1976年に逮捕された田中角栄元首相に、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。
ロッキード事件は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、旅客機の受注等をめぐって発生した、日本政治界の大規模汚職事件のこと。
この事件における受託収賄と外為法違反容疑で起訴された田中元首相は、判決に対して遺憾の意を表明し控訴したが棄却され、上告審の最中である1993年12月16に田中は死去した。
12月27日|第二次中曽根内閣発足
田中角栄逮捕により窮地に追い込まれた中曽根内閣は、衆議院解散により政局打開を図りますがその結果は⇒⇒歴代首相・中曾根康弘を参照お願いします。
1982年の文化・芸能ニュース
2月19日|女流棋士・林葉直子が史上最年少の15歳で名人となる
女流棋士の林葉直子が第9期将棋女流名人位戦で勝利し、史上最年少の15歳で名人となった。
女流アマ名人戦に小学校6年生で優勝し、かねてから天才と騒がれていた林葉直子は1982年から1991年までの女流王将を10連勝するなどの偉業もさることながら、その端正なルックスにも注目が集まった。
テレビやドラマの出演で世間からの人気も高かった彼女だが、ヘアヌードの発売や失踪事件、中原誠との不倫等でも世間を騒がせた。
3月7日|隣人訴訟で原告が訴訟取り下げ
BENRYより引用
隣人訴訟とは三重県鈴鹿市の同じ敷地内に住み、親交の深かった家族との間に起きた民事訴訟事件のことである。
事件は1977年、上述した隣人の夫婦に子どもを預けていたところその子どもが池で事故死したことに端を発する。
死亡した子供の親は預け先の夫婦に損害賠償を請求したが、立場上の注意義務があったとして損害賠償が認められたのである。
しかし善意による隣人同士の付き合いが崩れてしまうことから、この判決は世間から批評の的になった。
匿名電話などの卑劣な嫌がらせが全国から殺到したため、夫婦は訴訟を取り下げた。
3月28日|沖縄でのコンサート中に松田聖子が暴行被害を受ける
当時トップアイドルとして人気絶頂だった松田聖子が、沖縄県で開催した「松田聖子スプリング・コンサート」の最中に、凶器を持った男性に殴打された事件が起こった。
松田聖子の代表曲である「渚のバルコニー」を歌っている最中、客席最前列にいた男性が40㎝ほどの金属棒を持って松田聖子に襲い掛かってきたのだ。
男は5回ほど殴り掛かったのち警備員に取り押さえらえた。
松田聖子は、大怪我には至らなかったものの裂傷や打撲による外傷、さらには大きな精神的ダメージを受けた。
男は埼玉から来た19歳の少年で、松田聖子の熱狂的ファンであった。
当時ノイローゼ気味で、「松田聖子を殴って有名になりたかった」のが犯行に及んだ理由であった。
6月28日|俳優の沖雅也が飛び降り自殺
Gooブログより引用
1983年のこの日、人気俳優の沖雅也が、京王プラザホテルの最上階から飛び降り、全身を強く打ち死亡した。
沖雅也は「太陽にほえろ!」や「俺たちは天使だ!」といったドラマ出演により、お茶の間の人気が高かった。
当時31歳と若く、人気俳優であった彼の突然の死は、世間を騒然とさせた。
自殺の原因は明らかになっていないが、所属事務所社長とのトラブルや老いを忌避しての自殺と言われている。
また、関係者やドラマ共演者の間では、以前から精神的な不安定さやナイーブさがうかがえる様子であったと語る者もいた。
1983年の主な事件
1月31日|連続強盗殺人犯勝田清孝逮捕
勝田清彦とは、1972年から1983年にかけ東海・近畿地方で8人を殺害した連続強盗殺人犯である。
勝田は22人を殺害したと自供し14件は立件されなかったが、火が射8人は連続殺人事件としては戦後最多であり、勝田が殺人を起こした8件は次の通りである。
- 1972年、京都府で24歳のクラブホステスを強姦した上絞殺
- 1975年、大阪府吹田市で33歳のクラブママを絞殺し、現金10万円を奪う
- 1976年、愛知県名古屋市で32歳のクラブホステス女性を絞殺し、現金12万円を奪う
- 1977年、愛知県名古屋市で28際のアルバイト店員女性を絞殺し、現金4万円を奪う
- 1977年、名古屋市で33歳の女性を絞殺し、45万円相当のダイヤモンドを奪う
- 1977年、神戸市で猟銃で現金輸送車の運転手の25歳男性を射殺、現金410万円を奪う
- 1980年、名古屋市のスーパーマーケットで現金・商品券576万円あまりを奪い、夜間店長の男性を射殺
- 1982年、ヒッチハイクした男性を射殺
また4件目の殺害事件の6日後、勝田は朝日放送で放送されていた「夫婦でドンピシャ!」へ妻とともに参加し優勝し、その1か月後には5件目の殺害事件を起こしている。
勝田は2000年に死刑が執行されている。
6月13日| 戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏が逮捕
戸塚ヨットスクール事件とは、非行の更生施設として運営されていた「戸塚ヨットスクール」内で、訓練生が死亡・傷害致死・行方不明となった一連の事件のことである。
当初、戸塚ヨットスクールの運営内容をマスコミが好意的にとりあげていたことにより、スクールに子供を預ける親が急増した背景がある。
訓練生に対しコーチや戸塚宏らが暴行を加えたが、負傷した訓練生に必要な治療を行わず死亡させなどしていた。
戸塚宏らには懲役6年の実刑判決が下るなどした。
6月27日|練馬一家5人殺害事件発生
練馬一家5人殺害事件とは、不動産競売の取引を巡り、物件を落札した犯人が競売物件に住む家族5人を殺害、バラバラにした事件である。
権利関係が非常に複雑な土地・家屋を不動産競売で落札した犯人は、家族を立ち退かせた上で転売で利益を得ようとしていた。
しかし家族が賃借人として居住しており、退去には猶予期間および立退料が必要であったが、それを知らなかった犯人が先走り、転売を決定していた。
転売期日までに家族が立ち退かなかったため、犯人は家族を物件内で殺害しバラバラに解体していたが、連絡がとれないことを不審に思った被害者の親族が通報、逮捕に至った。
2001年犯人の死刑が執行された。
なお家族のうち長女だけは林間学校へ参加しており難を逃れ、その後結婚・出産をしている。
9月1日|大韓航空機撃墜事件発生
大韓航空機追撃事件とは、大韓航空のボーイング747がソビエト連邦の領海を犯したため、戦闘機により撃墜され、乗客乗員269人全員が死亡した事件である。
撃墜当日は「大韓航空機が行方不明」と報じられ、ソ連は事件の関与を否定していた。
ソ連は9月6日に国連安全保障理事会で撃墜を認めるなどし、1991年になりようやく密かに回収していたブラックボックスをICAOへ提出し、領海侵犯した原因が調査された。
この事件で日本人は28名亡くなっている。
1983年(昭和58年)に起こったスポーツ界の出来事
2月13日|青木功が日本人初のアメリカPGAツアー優勝
ゴルフニュースGDOより引用
日本ゴルフ界のトッププレイヤーとして活躍していた青木功が、「ハワイアンオープン」で、日本人初のアメリカPGAツアー優勝を果たした。
迎えた最終18番ホール、青木はトップのジャック・レナーとわずか1打差の2位。
バーディ以上を取らなければ2位が確定してしまう土壇場の状況で、青木は2連続でラフへのミスショット。
青木の優勝は絶望的だと誰もが思っていたが、この状況での3打目は、見事チップインイーグルだった。
「奇跡」とも言われているこの1打で、見事逆転優勝を果たした青木。
この優勝の後、日本人のPGAツアー優勝は、18年後の松山英樹まで現れない。
4月5日|第55回選抜高校野球大会で徳島・池田高校が優勝
第55回選抜高校野球大会で、徳島の池田高校が選抜初優勝を果たした。
決勝では、横浜市立横浜商業高校を相手に、3対0の完封勝利。
この完封勝利の率役者となったのは「今大会ナンバーワンエース」と言われ、この年のドラフト会議でジャイアンツから1位指名を受ける水野雄仁だった。
彼の投打にわたる活躍もあり優勝した池田高校は、史上初の春夏連続制覇を成し遂げた。
6月9日|スピードスケートで黒岩彰が、世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たす
web Sportiva-集英社より引用
当時専修大学の3年生だった黒岩彰が、世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たした。
同大会では、1年次に6位、2年次に8位を記録しており、悲願の初優勝であった。
翌年には大きな期待を背負ってサラエボオリンピックに出場するも、10位と振るわなかった。
その後はプレッシャーやストレスにより低迷する時期もあったが、国土計画に入社後は、再び第一線で活躍した。この時期には、当時一般的ではなかったメンタルトレーニングも取り入れている。
1988年には、カルガリーオリンピックで自己ベストを出して3位に入賞、見事銅メダルを獲得している。
8月21日|第65回全国高校野球選手権大会で大阪・PL学園高校が優勝
第65回全国高校野球選手権大会で、大阪・PL学園高校が5年ぶり2度目の優勝を果たした。
エースの桑田真澄、4番・清原和博の「K・Kコンビ」の活躍が目立った今大会。
準決勝では、春の選抜の優勝校である池田高校を7対0で破り、甲子園3連覇を阻止。
決勝では、春の選抜でも最後まで勝ち上がった横浜商業を破っての優勝だった。