1980年以降の歴代首相(内閣総理大臣)の歴史をわかりやすく解説

国会議事堂

この記事では昭和53年(大平正芳)以降の歴代首相と、それぞれの首相の退陣理由を解説しています。

そもそも内閣総理大臣って何なの?

歴代首相の歴史を解説する前に、そもそも首相=内閣総理大臣とは何なのかをお話しておきます。

結論から言えば次のようになるのですが、その理由を解説していきます。

結論

内閣総理大臣には衆議院第一党の党首が指名され、国務大臣を任命して国の行政を担う職業である

三権分立と内閣総理大臣

日本国憲法では国の権力は3つにわかれています。
聞いたことがある方は多いと思いますが、3つの権力とは司法・立法・行政ですね。
司法は裁判所、立法は国会、行政は内閣がそれぞれ担います。

司法は法律のルールを破り罪を犯した人を罰するもので、最高裁判所、下級裁判所が司法権を所有しています。

立法は国会で行われ、我々が社会を生きる上でのルール(法律)を制定します。
われわれ国民が選挙により選出した国会議員が、国会で国の法律制定や予算の承認を行います。

行政を担うのは内閣で、内閣は内閣総理大臣や国務大臣から成り立っています。内閣総理大臣を指名するのは国会で(任命は天皇が行う)、内閣総理大臣が国務大臣を任命します。
内閣は、国会で決定された法律や予算に基づき国の政治を行い、具体的には外交、予算の編成および国会への提出、災害時の自衛隊派遣、法律案の提出など、国をより良い方向へ進ませる役割を担っています。

このような日本の国の仕組みから、内閣総理大臣とは何者かをまとめると次のようになります。

我々国民が選挙によって選んだ国会議員で構成されるのが国会で、国会(国会議員)が指名するのが内閣総理大臣、ということになるのです。

じゃあ国会(国会議員)は内閣総理大臣を何の基準で選ぶの?ということが疑問に浮かび上がるかと思います。

最初に述べたように、内閣総理大臣に指名されるのは国会(衆議院)の第一党の党首なのですが、何故そうなるのかを説明します。

衆議院の第一党党首が内閣総理大臣となる理由

内閣総理大臣になるには衆議院と参議院で指名選挙をし、それぞれ過半数の票を獲得しなくてはいけません。
衆議院と参議院で過半数を獲得した者が異なる場合は協議となりますが、協議が決裂した場合衆議院の代表が優先されるため、実質的に衆議院の投票で過半数を獲得した者(国会議員)が内閣総理大臣となります。

国会議員は所属する党があり、具体的には自民党、民主党、公明党などですね。
無所属の国会議員もいますが、選挙活動での党からバックアップや政党助成金が得られないため国会議員は党に所属したがります。
過半数の票を獲得するには、第一党(もっとも議席を有する政党)の国会議員で組織票を得る必要があり、結果として第一党党首が内閣総理大臣に指名されることになるのです。

衆議院と参議院

先ほどからチラりと衆議院と参議院という言葉が出てきていますが、簡単に解説します。
日本は2院制となっており、衆議院と参議院から構成されています。

議論する場が2つあるため、審議を慎重に行うことができることや、国民からの幅広い意見を取り入れる利点がある一方で、意思決定が遅くなるなどの欠点があります。

衆議院と参議院は対等な関係であるとされますが、衆議院の方が憲法上・国会法上の優越があり、そのため選挙制度にも両院で差があります。

衆議院 参議院
議員数 456人 245人
任期 4年 6年
(3年ごとに半数改定)
被選挙権 25歳以上 30歳以上

参議院は任期が6年と長く、辞任などがなければ腰を据えて行政に取り組むことができます。

一方衆議院の場合は任期4点となっていますが、実際に4年任期で選挙となったのは過去に1度しかありません。
なぜ任期前に選挙が行われるのか、次に解説します。

衆議院解散総選挙って何?

解散総選挙とは衆議院の国会議員を選挙で選びなおすことで、解散総選挙が行われるのは次の3つの場合があります。

解散総選挙が行われる3つの理由
  • 任期満了
  • 内閣不信任案が可決された時(69条解散)
  • 内閣が必要だと思った時(7条解散)

衆議院選挙は任期が4年のため、解散総選挙は4年に一度行われているのだと思われがちですが、任期満了で解散総選挙となったのは過去に1度だけです。

解散総選挙が行われる理由の多くは、3つ目の7条解散です。

何故ならば第一党は次の選挙も国民から多くの票を得たいと思うため、内閣の人気が高い時期を見計らって解散を行うからですね。

逆に言えば、衆議院選挙は首相に対する信任が国民から得られているかどうかの大切な指標となります。

もし衆議院選挙で第一党になれなかった場合は、国会で内閣総理大臣に指名されないのはもちろんのことですが、想定より議席を獲得できなかった場合にも、国民からの信任を得られなかったとみなされて内閣が総辞職することがあります。

また参議院選挙は解散がなく3年に1回きちんと行われるわけですが、参議院選挙も党および首相に対する人気投票の側面があり、参議院の結果も内閣維持のための大きな指標となります。
参議院の選挙結果により、内閣総理大臣が国民の支持を受けていないことが明らかとなり総理大臣を辞任するケースはよくあることなのです。

以上で簡単に内閣総理大臣と選挙の仕組みについてお伝えしました。

では本題の、歴代(1980年以降)内閣総理大臣を解説していきます。

歴代の内閣総理大臣

第68・69代内閣総理大臣・大平正芳

大平正芳

首相官邸HPより

期間:(1979年11月9日~1980年6月12日)

大平内閣のポイント

大福密約を反故にされた大平正芳は自力で票を集め内閣総理大臣に上り詰めました。

冷戦下において対米協調路線を歩みますがハプニング解散により衆議院は解散、選挙活動中に病に倒れ他界しました。

大平正芳が内閣総理大臣に就任するまで

1976年に衆議院議員選挙で自民党が敗北(過半数割れ)、三木武夫が辞意を表明したことにより、次期総理は自民党内で福田派の福田赳夫、田中派の大平正芳に絞られていました。
この際、総裁任期2年で福田赳夫が自民党総裁=内閣総理大臣となり、2年後には政権を福田から大平へ移行する旨の密約が交わされます(大福密約)。

しかし密約が交わされてから2年後の1978年、福田赳夫首相はその密約を反故にし自民党総裁選挙へ立候補します。
事前調査では圧倒的有利だった福田赳夫に対し、田中派の大平正芳は集票作戦を展開し大平が福田に圧勝、大平正芳内閣総理大臣が誕生します。

大平正芳の業績

当時はソ連のアフガニスタン侵攻などから「新冷戦時代」と言われ、アメリカとソ連の対立が深刻化していました。
大平内閣は米国の要望する防衛予算を組み、ソ連のモスクワで行われたモスクワオリンピックを米国や西欧諸国と共にボイコットするなど、対米協力路線へと進みます。

ハプニング解散から大平の急死

1980年5月16日に社会党が自民党のスキャンダルを理由に、ポーズとして内閣不信任決議案を提出すると、反大平派が採決を欠席し思わぬ形で不信任案が可決され衆議院は解散し(ハプニング解散)、社会党を含む野党は混乱します。

内閣不信任案の可決を受け6月22日に衆議院・参議院の選挙が決定し、選挙へ向けて活動を行っていた大平でしたが過労と不整脈により入院、6月12日に死去してしまいます。

内閣総理大臣臨時代理・伊藤正義

期間:1980年6月12日~1980年7月17日

大平正芳の急死を受け、内閣総理大臣臨時代理に就任した伊藤正義は、内閣総辞職を行い衆議院総選挙終了まで代理を務めました。

第70代内閣総理大臣・鈴木善幸

首相官邸HPより

期間:1980年7月19日~1982年11月27日

鈴木善幸内閣のポイント

鈴木善幸は「和の政治」をスローガンに、財政再建に取り組みました。

1982年に突然の退陣表明により、内閣総理大臣を辞します。

鈴木善幸が内閣総理大臣に就任するまで

田中派と福田派の派閥争いは大平の死を契機に収束、弔い合戦となった選挙では自民党が圧勝します。

不信任案から発生した衆議院解散であったため、不信任案決議に欠席した福田派からは党首候補が出しにくく、7月14日に大平派の鈴木新内閣が発足します。

鈴木善幸の業績「和の政治」

和の政治」をスローガンに掲げた鈴木は、派閥を超えた組閣を行い、反執行派閥が存在しなくなります。一方で大平派は田中角栄の影響を強く受けていたため、一部報道では角影内閣と揶揄されていました。

鈴木内閣発足時には国債残高が82兆円となっていたため、歳出削減などの財政再建への取り組みが活発化しました。

鈴木善幸、突然の退陣

鈴木内閣は1982年の総裁選で再任されれば長期政権が予期されましたが、鈴木善幸は「新総裁の元、党の刷新を図る」との理由で10月になり不出馬を表明、退陣します。

日米関係がこじれたことや党内派閥のバランス調整に苦慮したことが原因とされていますが、詳細は不明な点が多いです。

第71~73代内閣総理大臣・中曽根康弘

首相官邸HPより

期間:1982年11月27日~1987年11月6日

中曽根内閣のポイント

中曽根内閣は5年にわたる長期政権となり、国営企業をJR・NTT・JTへ民営化するなど新自由主義へ舵を取ります。

外交政策も米国と非常に親密な関係を築き、中国・韓国との関係も良好でした。

「死んだふり解散」などの選挙戦術により長期政権となった中曽根は、高い支持率を保ったまま政権のバトンを次世代のリーダーへ渡しました。

中曽根康弘が内閣総理大臣に就任するまで

鈴木善幸が出馬せず行われた自民党総裁選でしたが、中曽根康弘は不仲であった金丸信との和解もあり田中派の支持を得ます。
これにより中曽根が総裁予備選で圧勝し、鈴木善幸のあとを受け内閣総理大臣となります。

中曽根康弘の業績

中曽根は「戦後政治の総決算」をスローガンに行政財務改善・国営企業の民営化、医療や年金改革を行い、1987年まで約5年にわたる長期政権を担うことになります。

中曽根内閣は日本専売公社をJTに、日本国有鉄道をJRに、日本電信電話公社をNTTにするなど、新自由主義(官から民への自由競争主義)へと舵をとります
一方でこの政策は強力な組織であった国鉄労組を解体し、国鉄労組を支持母体とする社会党の弱体化を狙ったものであると後に中曽根は述べています。

また外交において中曽根は訪米中に「日米は運命共同体」と発言、また、ワシントンポスト会長宅の朝食会では日本列島を空母に見立て「日本は不沈空母」と発言し、当時冷戦状態にあったソ連の進出を防ぐ趣旨の発言を行うなど、米国側に寄った発言が目立ちました。

これらの発言もあり、中曽根と当時の米大統領レーガンは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な関係(ロン・ヤス関係)となり、貿易摩擦により悪化していたい日米関係を改善させます。

また韓国にも日本の首相としては初めて訪問、第二次中曽根内閣では最初の訪問先として中国を選ぶなどアジア諸国とも良好な関係を築き、1984年は日中の歴史上でも最も関係が良好だった年とも言われています。

1983年10月には田中角栄元首相がロッキード事件に絡み有罪判決を受け、政局打開のため衆議院解散を行いますが、自民党は大きく議席を減らし新自由クラブとの連立政権を樹立します。
1955年から続いていた55年体制(自民党の第一党として政権を維持していた体制)下で唯一の連立政権となりました。

また1986年の衆参同時選挙は「死んだふり解散」と呼ばれました。

高い内閣支持率を背景に衆参同時選挙を狙う中曽根でしたが衆議院解散を否定し続け、日程的にも衆参同時選挙は厳しいと言われていました。
しかし中曽根は6月2日に臨時国会を召集、野党が反発する中解散を行います。

7月6日に行われた史上2度目の衆参同日選挙では、ダブル選挙で投票率が高かったことや、内閣支持率が高止まりしていたことを背景として自民党は圧勝します。

自民とはその功績に報いるため総裁任期を1年延長し、中曽根は第三次中曽根内閣を誕生させるのでした。

竹下登へバトンタッチし、退任

死んだふり解散の後、「黒人は知的水準が低い」「女の子が書いた文章だから」などの黒人・女性蔑視発言が問題化し支持率が低下します。

しかし翌年夏には支持率も回復、次のニューリーダーと呼ばれていた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちから、竹下登を指名し、退任しました。

第74代内閣総理大臣・竹下登

首相官邸HPより

期間:1987年11月6日~1989年6月3日

竹下内閣のポイント

今では当たり前となっている消費税を導入したのが竹下登であり、当時の消費税率は3%でした。

在職中に戦後最大と言われる汚職事件・リクルート事件が発覚し、内閣支持率は消費税率と同じ程度にまで下落、総辞職を余儀なくされました。

竹下登が内閣総理大臣に就任するまで

中曽根康弘の裁定により、宮澤喜一・安倍晋太郎を抑えて内閣総理大臣へ就任した竹下登は、これまでの派閥の枠組みを超え、ライバル関係にあった安倍・宮沢を副総理・蔵相にするなど柔軟な人事調整を行いました。

竹下登の業績

竹下登が行った主な政策は、各市町村へ1億円を給付しふるさと創生事業・高齢化社会への財源を確保するため3%の消費税導入・日米貿易摩擦の懸念点の1つであった牛肉・オレンジの貿易自由化などがあげられます。

特に我々消費者にとって影響が大きかったのが消費税の導入であり、2019年には社会保障費の増大に対応するため消費税率が10%へと引き上げられています。

リクルート事件で内閣総辞職へ

1988年6月18日、第二次世界大戦後最大の企業犯罪・収賄事件と呼ばれるリクルート事件が発生します。

リクルート事件とは、リクルート社子会社のリクルート・コスモスの未公開株を、リクルート江副浩正が会社の社会的・政治的地位を高める目的で政界関係者に贈与していた事件のことです。
未公開株を受け取ったのは竹下登・宮澤喜一・安倍晋太郎など自民党主力議員であり、当然内閣支持率は低下、10%を割り込みます。

これを受け6月3日に竹下内閣は総辞職となりました。
また、竹下登の秘書で金庫番と言われた青木伊平が自殺しています。

第75代内閣総理大臣・宇野宗佑

首相官邸HPより

期間:1989年6月3日~1989年8月10日

宇野内閣のポイント

リクルート事件後に指名されたのが宇野宗佑であり、クリーンなイメージが期待されました。

しかし首相就任直後に女性スキャンダルが発覚、翌月の参議院選挙での自民党大敗を受けて総辞職しました。

宇野宗佑が内閣総理大臣に就任するまで

リクルート事件により竹下登が失脚、しかし総裁候補がリクルート事件に関与していたため総裁選びは難航、リクルート事件に関与がなく中曽根派のナンバー2であった宇野が内閣総理大臣に就任することとなります。

宇野宗佑がスキャンダルで総辞職

しかし首相就任3日後には、サンデー毎日で宇野に関する女性スキャンダルが掲載されます。
スキャンダルの内容は、芸者に対し「愛人になればこれだけ出す」と指3本を出した(30万)という内容のものでした。

この報道を受け7月の参議院選挙で自民党は参議院で初の過半数割れの大敗(日本社会党が躍進)、宇野は退陣を表明しました。
なおリクルート事件で支持率が大幅に低下していた自民党は、宇野のスキャンダルがなくても大敗していたことは間違いなかったでしょう。

総理在任期間69日は史上4番目の短命内閣でした。

第76・77代内閣総理大臣・海部俊樹

首相官邸HPより

期間:1989年8月10日~1991年11月5日

海部内閣のポイント

海部俊樹内閣時代に湾岸戦争が勃発、多国籍軍へ多額の資金提供を行いましたが、人的な援助を行わなかったことで国際的な非難を浴びました。

リクルート事件を教訓として政治改革を推進しましたが、自民党内からの反発により断念、衆議院解散も党内基盤の弱さから不可能となり内閣総辞職を選択せざるを得なくなりました(海部おろし)。

海部俊樹が内閣総理大臣に就任するまで

リクルート事件に対する自民党への批判が冷めやらぬ中であったので、自民党の有力議員は謹慎中であり、そんな中白羽の矢が立ったのは海部俊樹でした。
海部俊樹は竹下登と同門(早稲田大学)であり、年齢が若く当選回数も多かったため竹下が海部を首相にする方針を打ち出し、自民党総裁選で勝利をおさめます。

海部俊樹の業績

中小派閥の河本派の海部は党内基盤が弱く、実質的には金丸・竹下・小沢らの傀儡政権となっていました。
1991年1月に湾岸戦争が勃発すると、日本は小沢の意向により130億ドルもの資金提供を行いましたが、自衛隊を派遣せずに金だけ提供したことが国際的な非難を浴びました

停戦後には自衛隊をペルシャ湾へ派遣しましたが、これが自衛隊創設以来はじめての海外派遣となりました。

「海部おろし」により退陣

海部はリクルート事件を巡り高まっていた政治改革の実現を推進していましたが、野党のみならず自民党内からも反発の声があがり政治改革法案は廃案となります。
緊急会議で海部は「重大な決意で臨む」と発言し、つまりは衆議院の解散を示唆しましたが、支持層であった竹下派に反対され解散ができなくなり、廃案の責任をとる形で任期満了に伴い内閣総辞職となりました。

元々政治基盤が弱かった海部は、各派閥から早期退陣を迫られていたため「海部おろし」により辞職をしたというわけですね。

第78代内閣総理大臣・宮澤喜一

首相官邸HPより

期間:1991年11月5日~1993年8月9日

宮沢内閣のポイント

宮澤内閣ではPKO法案が成立し、1992年にはPKOの一環としてはじめて自衛隊の海外派遣が行われました。

政治改革を推進しなかったことから、内閣不信任案が提出され内閣は総辞職、55年体制の崩壊を招きました。

宮澤喜一が内閣総理大臣に就任するまで

「海部おろし」による内閣総辞職を受け、総裁選挙で勝利したのが宮澤喜一でした。

宮澤喜一の業績

宮澤喜一の業績として挙げられるのはPKO法案の成立です。

日本はこれまで国際連合平和維持活動(PKO)に参加せず、紛争地域へ人員派遣をほとんど行っていませんでしたが、PKO法案が成立したことにより、日本は国外の内戦に対しPKOのため自衛隊を派遣することが可能となったのです。
1992年9月にはPKOの一環としては初めて自衛隊がカンボジアへ派遣されています。

1991年はバブル経済が崩壊した年で、未曾有の危機に際し宮澤喜一は金融機関に公的資金を注入しようとしましたが、マスコミや金融機関自身からの反発に合い実行はできませんでした。
これにより山一證券の破綻など金融機関の倒産が相次ぎ、結果的に公的資金注入はすべきだったのではないかと言われています。

政治改革が進まず退陣、55年体制の崩壊

リクルート事件を巡り政治改革(政治資金や選挙制度改革など)を行う機運が高まっていたものの、小選挙区制の導入などには積極的でなかった宮澤に対し1993年6月に内閣不信任案が提出され、政治改革を推進する羽田派などが賛成に回ったことにより衆議院は解散となります。

衆議院選挙では自民党を離党した新生党・新党さきがけなどが票を獲得、自民党は過半数割れとなりました。

1955年から自民党の与党第一党が維持されていましたが、野党の連立政権樹立により、自民党は野党となり、いわゆる55年体制が終焉を迎えることとなりました。

第79代内閣総理大臣・細川護熙

首相官邸HPより

期間:1993年8月9日~1994年4月28日

細川内閣のポイント

細川護熙は、新党旋風を巻き起こし1955年から継続していた55年体制を終了させました。

1993年の冷夏では米不足となったため、コメ市場を部分開放、またリクルート事件以降課題となっていた政治改革法案を成立させました。

細川護熙内閣が誕生するまで

第40回衆議院選挙で511議席に対し自民党は223議席しか獲得できませんでしたが、一方で既存野党も連合を組んだとしても過半数には達しませんでした。

このため自民党から離党した、羽田派の新生党、日本新党と新党さきがけがなどのいわゆる「新党ブーム」を巻き起こした政党がキャスティング・ボートを握ることとなった。

MEMO

対立する2つの勢力がどちらも過半数を得られない場合、ある程度まとまった数を有した別勢力がどちらがわの勢力に加担するかによって2つの勢力のうちどちらが主権を握るかが決定されます。

この立場になることをキャスティング・ボートと言い、自民党と野党、対立する2つの勢力のうち新党がどちら側につくのかが注目されました。

日本新党と新党さきがけは政治改革を早期に処理するため「さきがけ日本新党」という院内統一会派を形成し、細川護熙を首相とする細川内閣樹立へ動き出しました。

結局、さきがけ日本新党を取り込むことに成功したのは野党で、内閣発足後に行われた調査では内閣支持率が70%超となりました。
しかし野党8党からなる連立政権が政策の調整を行うことは難航が予想されました。

細川内閣の業績

1993年は記録的冷夏により深刻な米不足が発生、コメ市場が部分開放されるもタイ米が破棄されるなどの問題が起こりました。

また唯一にして最大の業績は政治改革四法案の成立でした。
小選挙区300・比例代表200へ選挙制度が改革され、リクルート事件の反省から政治資金規正法の一部が改正、企業献金は収賄性のない献金となるよう制度が改められました。

佐川急便からの借入金未返済疑惑

政治改革関連法案が成立したものの、細川が佐川急便からの借入金を未返済のままであるという疑惑が持ち上がります。
一方で連立政権の小沢一郎と武村正義の対立が表面化し、党内基盤が揺らぎます。

細川護熙は佐川急便への返済の証拠提出ができず、国会が機能しなくなり、4月8日に退陣を表明しました。
(後日談として与党自民党は、細川が佐川急便からの借入金を返済していたことを知っていたという話があります。)

第80代内閣総理大臣・羽田孜

首相官邸HPより

期間:1994年4月28日~1994年6月30日

羽田内閣のポイント

羽田内閣は連立与党を維持できず、在任期間は現行憲法下では歴代最短の64日。

羽田孜が内閣総理大臣に就任するまで

辞意に伴い、連立与党が後継首相として指名したのが羽田孜でした。
羽田孜は宮沢内閣が政治改革法案に消極的であることに反対し、解散後の総選挙では自民党を離れ新生党の党首となっていました。

連立政権を維持できず内閣総辞職

羽田が内閣総理大臣に指名されたのち、連立与党のうち新生党・日本新党・民社党などが統一会派「改新」の結成を発表します。
改新は130議席となり野党第一党であった社会党の74議席を上回りましたが、社会党の村山富市がこれに大反発、連立与党から社会党が離脱する事態となります。

少数内閣となってしまったため、予算案成立後に野党の自民党は内閣不信任案を提出、数の上で不信任案の成立が回避できなくなってしまい羽田は6月25日に内閣総辞職を選択します。

羽田内閣の在任期間はわずか64日であり、現行憲法下では歴代最短となってしまいました。

第81代内閣総理大臣・村山富市

首相官邸HPより

期間:1994年6月30日~1996年1月11日

村山内閣のポイント

1947年の片山内閣以降、47年ぶりに社会党首班内閣である村山内閣が誕生しました。

それまでの社会党の主張を方向転換し、自衛隊合憲や日米安保維持を主張しましたが、阪神淡路大震災時の初動の遅れに非難が集まりました。

新年度予算成立を待たず突然の退陣を行い、世論・マスコミからバッシングを受けました。

村山富市が内閣総理大臣に就任するまで

羽田内閣総辞職後、自民党は社会党委員長が内閣総理大臣となり自民党・社会党・さきがけ党の連立政権を打診、合意に至ります。
自民党内部で反発もありましたが、連立与党が指名した海部俊樹との決選投票の結果、村山富市が勝利し内閣総理大臣に指名されます。

村山富市の業績

村山富市が内閣総理大臣在任中には、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こりました。

特に阪神淡路大震災時の初動対応の遅さには批判が集まり、自衛隊派遣が遅れたことに対し「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁し、火に油を注ぎました。

一方で従来の社会党の主張であった「反自衛隊・反安保政策」では、自衛隊違憲から合憲へ政策を転換、日米安保の維持についても明言し、国論統一に寄与しました。

突然の退陣

終始支持率が低いままであったことや1995年7月の参議院選挙での社会党大敗により、村山内閣は新年度予算の成立以降に退陣するのではないかと言われていました。

しかし村山首相は1996年の1月5日に突然の退陣を表明し、世論・マスコミから大きなバッシングを受けました。

退陣理由は社会党内の人現関係悪化や、住専問題などが関与しているのではないかと言われています。

第82・83代内閣総理大臣・橋本龍太郎

首相官邸HPより

期間:1996年1月11日~1998年7月30日

橋本内閣のポイント

第一次橋本内閣ではバブル崩壊に伴う住専処理のため公的資金の注入に非難の声があがりましたが、薬害エイズ問題の解決や、普天間飛行場返還合意などにより高い支持率を維持します。

解散総選挙で自民党の議席を復活させることに成功した橋本内閣は6つの改革を提唱しますが、不況下での消費税率アップにより景気は悪化、参議院選挙での敗北の責任をとり総辞職しました。

橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任するまで

村山内閣の突然の退陣を受けて、自社さ連合は自民党総裁の橋本龍太郎を首班とし連立政権を維持することに合意します。

橋本龍太郎の業績

折からの住専問題では住専処理関連法が成立し、6850憶円の公的資金が投入されました。
また薬害エイズ問題では菅直人厚生労働大臣が、国の責任を認め患者側に謝罪、患者との和解に至りました

外交面では沖縄県の普天間飛行場返還に合意、内閣支持率を上げると1996年9月に衆議院を解散し総選挙に挑みます。
高い支持率を背景に自民党は議席を復調させ、自民党単独内閣を復活させます。

第二次橋本内閣では「行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革」を「6つの改革」を提唱しました。
金融改革は「金融ビッグバン」と呼ばれ、証券口座の手数料自由化など市場の自由化が行われました。

しかしバブル崩壊後の不況に加え村山内閣で内定していた消費税率の引き上げが決定的となり、不況が深刻化、支持率が低下します。
1998年7月の参議院選挙で自民党が大敗すると、その責任をとり内閣総辞職となりました。

第84代内閣総理大臣・小渕恵三

首相官邸HPより

期間:1998年7月30日~2000年4月5日

小渕内閣のポイント

発足当時は歴代過去最低の支持率でスタートした小渕内閣でしたが、公明党・自由党と連立政権を組むことで政権基盤は安定し、さまざまな重要法案を可決させました。

また「ブッチホン」など国民視点に立った行動などから内閣支持率を上昇させますが、脳梗塞により倒れ、内閣総辞職となりました。

小渕恵三が内閣総理大臣に就任するまで

第二次橋本改造内閣で外務大臣に就任し、オタワ条約を締結するなど外相として評価を高めていた小渕恵三は総裁選へ出馬します。

自民党総裁選では、梶山静六、小泉純一郎、小渕恵三が出馬し、田中真紀子は3人を「軍人、変人、凡人」と評し話題となりました。

小渕恵三は自民党惨敗の原因となった橋本龍太郎と同派閥であったため、反発も強く支持率も低い状態から政権はスタートし、ニューヨークタイムズは小渕を「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと揶揄された。

小渕恵三の業績

北海道拓殖銀行・山一証券・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行など大手金融機関の破綻への対処と景気対策を迫られた小渕内閣は、経済企画庁長官に民間から堺屋太一を起用し、野党の意見を丸のみする形で金融再生関連法案を成立させました。

一方で公明党から地域振興券政策の受け入れ、自由党幹事長を自治相として入閣させるなど、政権基盤を強化、1991年1月には事実上の自自公連立政権が樹立されていきます。

連立政権により政権が安定すると「国旗・国家法」「通信傍受法」「改正住民基本台帳法」などを成立させることに成功しました。
また有名人などに首相自らが電話をして意見を聞く「ブッチホン」が1999年の流行語大賞となるなど、国民目線で政治を行おうと努力をしました。

突然の脳梗塞と死

2000年4月1日、自由党との連立が決裂します。
小渕首相はその翌日脳梗塞を発症し緊急入院、4月5日にこん睡状態となり、青木首相臨時代理が内閣総辞職を決定した。

小渕は5月14日、62歳の若さで死去した。

新聞にはくまなく目を通すなど生真面目な行動が、組閣時には低かった内閣支持率を次第に上昇させましたが、一方でそうした激務が病気の原因になったのではないかと言われています。

第85・86代内閣総理大臣・森喜朗

首相官邸HPより

期間:2000年4月5日~2001年4月26日

森内閣のポイント

小渕恵三の緊急入院の後を受けて誕生したのが森喜朗内閣でしたが、その決定方法には国民からの疑問が沸き起こりました。

また不用意な発言が多く、マスコミからも評判が悪かったため内閣支持率は低下、1年で内閣総辞職を余儀なくされました。

森喜朗が内閣総理大臣に就任するまで

小渕恵三が緊急入院し、首相の座を継いだのが森喜朗でした。

小渕の緊急入院に伴い、小渕からから指名されたとして官房長官の青木が首相臨時代理に就任しました。
その後青木を含む自民党有力議員5人が談合し、森の首相就任を決定したと言われています。

そもそも脳梗塞で言葉が発せられない状態の小渕首相が、後継の青木官房長官を本当に指名できたのかという点において、医師からの説明も曖昧であり、マスコミ・国民から疑念の声があがりました。

森喜朗の業績

森喜朗は小渕の急死で政権を引き継いだため、政治上の混乱を抑えるよう政治を行いました。

南九州で発生した口蹄疫問題を引き継ぎ、ワクチンの迅速な手配を行い、被害拡大を抑制することに成功しました。
同様に小渕から引き継いだ沖縄サミットを開催、クリントン大統領の欠席を防ぐことに成功しました。

マスコミからの評判と退陣

森喜朗はマスコミからの評判が悪いことで有名でした。

「日本は天皇を中心とした神の国」と発言したことや、首相動静について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」などの発言により、マスコミからは「首相としての資質に欠ける」とまで言われました。

また2001年2月10日に「えひめ丸事故(日本の高校生の練習船がアメリカの原子力潜水艦と衝突し、沈没した事故、9名が死亡)」が発生した際、ゴルフ場におり、その後1時間半にわたりプレーを続けたことが、危機管理に欠けるとバッシングを受けました。

その結果内閣支持率は低下、参議院選挙に影響が出ることから4月6日に辞任を表明しました。

第87・88・89代内閣総理大臣・小泉純一郎

首相官邸HPより

期間:2001年4月26日~2006年9月26日

小泉内閣のポイント

小泉内閣は郵政民営化を本丸とした構造改革(民営化)を掲げ、高い支持率を背景に長期政権を維持しました。

外交では北朝鮮に訪問し、拉致被害者5名を帰国させ、北朝鮮からの謝罪を引き出しました。

郵政民営化法案は一度否決されましたが、「小泉劇場」と呼ばれた衆議院解散選挙を経て、可決されました。

森内閣の退陣に伴い、自民党総裁選へ出馬したのは橋本龍太郎・麻生太郎・亀井静香・小泉純一郎の4名でした。
橋本龍太郎の勝利が予想された総裁選でしたが、小泉純一郎は予備選挙で「自民党をぶっ壊す」など派手な選挙戦を展開し、街頭演説では多くの観衆が集まり支持を高めていきます。

これにより小泉純一郎は予備選・本選挙とも圧勝し、第87代内閣総理大臣に指名されます。

小泉純一郎の業績

小泉純一郎は慣例となっていた派閥からの推薦を無視し、官僚や党人事を全て自分で決定するなど「自民党をぶっ壊す」を有言実行していきます。

小泉純一郎は景気回復には場当たり的な景気刺激策に依存するのではなく、「構造改革なくして景気回復なし」として、道路関係四公団・石油公団などの特殊法人の民営化を行う「聖域なき構造改革」を打ち出します
そして構造改革の最終目的として、郵政三事業の民営化を掲げました。

また、総裁選時に公約としていた靖国神社への参拝を行いました

小泉純一郎が総理大臣に就任前は、靖国神社参拝を行うと中国、韓国からの強い反発が起こったため長年行われていませんでした。
しかし小泉純一郎は総理在任中は毎年靖国神社参拝を行い、任期最終年である2006年には終戦記念日における参拝を行いました。

テロ対策特別措置法を成立させたのも小泉純一郎内閣の業績の一つです。

2001年9月に米同時多発テロが発生すると、小泉内閣は米軍がアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、自衛隊を米軍らの後方支援させました。

また2004年には、イラク復興支援特別措置法に基づき、陸上自衛隊のイラク派遣を行います。
イラクは同年4月に日本人を拉致して自衛隊の撤退を要求しましたが、小泉首相はテロには屈しないとして要求を拒否しました。また自己責任論を主張し、人質が解放された後に人質らに外交経費を請求しています。

同じく2004年10月にはイラクのアルカイーダ組織に日本人香田証生が人質になります。
アルカイーダは自衛隊撤退を要求しましたがやはり日本はこれを拒否し、香田証生は殺害され、11月2日には殺害動画がネット上に流れました。

また2002年9月には突然北朝鮮を訪問、金日成国防委員長との初の日朝首脳会談を行いました
北朝鮮は日本人の拉致を正式に認めのちに拉致被害者のうち5人が日本へ帰国しますが、拉致被害者のうち8人が死亡、1人が行方不明という報告に拉致被害者遺族は激怒しました。

小泉内閣最大の功績は郵政民営化ですが、それには小泉劇場と呼ばれた小泉首相の戦略が大きく関与しました

2005年9月、小泉内閣の本丸であった郵政民営化関連法案が国会へ提出されましたが、参議院では郵政民営に反対する自民党議員の造反に合い否決されます。
小泉は法案が否決されれば衆議院を解散すると表明していましたが、民営化反対派はは単なるけん制であると高を括ってました。

しかし参議院で法案否決されると小泉首相は即座に衆議院を解散、郵政民営化反対派には自民党の公認を与えずに、反対派の選挙区に自民党公認の刺客を送り込み全面対決を行います。
小泉は衆議院の解散を「郵政解散選挙」と名付け、郵政賛成派VS反対派の構図を構築、反対派を抵抗勢力とするマスコミを利用したイメージ戦略を行いました。

これらの選挙戦略は小泉劇場と呼ばれました。
選挙を「郵政民営化賛成か反対か」と単純な二者択一にすることで、政治に関心のない層を投票させることに成功し、自民党は圧勝しました。
またこの衆議院選挙で初当選した自民党議員は83名にものぼり、その自民党議員は「小泉チルドレン」と呼ばれました。

選挙結果を受け、2005年10月14日の特別国会で郵政民営化関連法案が可決されました。

任期満了に伴う退任

2006年9月20日に自民党総裁選が行われ、北朝鮮外交で福官房長官として小泉の信任を大きく得た安倍晋三が指名されました。
小泉純一郎は任期満了に伴い退任しましたが、内閣総理大臣の任期満了に伴う退任は1987年の中曽根康弘以来のことでした。

第90代内閣総理大臣・安倍晋三

首相官邸HPより

期間:2006年9月26日~2007年9月26日

第一次安倍晋三内閣のポイント

安倍晋三内閣は、国民投票法や改革教育基本法を成立させました。

閣僚スキャンダルにより内閣支持率は低迷、自身の健康問題により退陣を表明しました。

安倍晋三が内閣総理大臣に就任するまで

小泉の任期満了に伴う総裁選で、麻生太郎、谷垣禎一を大差で破り9月26日に内閣総理大臣に指名されたのが安倍晋三でした。

安倍晋三内閣の政策

小泉構造改革を引継ぎ「美しい国」を目指すと就任表明で述べた安倍晋三は、小泉首相の靖国参拝で冷え切っていた中国・韓国との関係性を修復するため、それぞれの国へ訪問を行いました。

また憲法を改正するための国民投票法や、愛国心表現が盛り込まれた改革教育基本法を成立させました

健康上の理由により退任

しかし安倍が任命した本間正明税制会長の愛人問題、住田玄一郎内閣府特命担当大臣が架空事務所費経費問題で辞任、また2007年5月には事務所費・光熱水費・献金問題等で疑惑があった松岡農水大臣が首をつって自殺するなど、スキャンダルが続発します。

これらの不祥事により内閣支持率が低下し、2007年7月29日の参議院選挙では自民党が大敗し安倍内閣退陣の声があがりました。
その後安倍首相は続投を表明するも、潰瘍性大腸炎により公務を続けることが難しくなり、9月12日に退陣を表明しました。

第91代内閣総理大臣・福田康夫

首相官邸HPより

期間:2007年9月26日~2008年9月24日

福田内閣のポイント

福田内閣はテロ特措法失効に伴い、新テロ特措法をを成立させました。

内閣支持率の低迷により退陣し、内閣総理大臣は2代連続1年余りでの退陣となりました。

福田康夫が内閣総理大臣に就任するまで

参議院選挙で歴史的敗北を受けて辞任した安倍晋三の後を受け、自民党総裁選に立候補したのが麻生太郎と福田康夫で、投票により福田康夫が当選、9月26日に内閣総理大臣に就任しました。

組閣も安倍内閣の官僚15人を残すなどし、自民党が政権を失う可能性もあるため「背水の陣内閣」と命名し政治不信の解消・野党との協議を強調しました。

福田内閣の功績

日本はテロ対策特別措置法に基づき、インド洋で海上自衛隊が給油活動を行っていましたが、テロ対策特別措置法は2007年11月に失効しました。

福田内閣は新法成立(新テロ対策特措法)に向け野党と協議するも不振に終わり、野党が多数を占める参議院で否決され、衆議院で2/3賛成により可決しました

内閣支持率低迷による辞職

ねじれ国会による苦戦が続き支持率は低迷、衆議院の任期が近づく中解散総選挙に踏み切ることが出来ず、2008年9月24日に内閣総辞職となりました。

また辞職会見で記者からの質問に対し「あなたとは違うんです」と発言し、2008年の流行語大賞トップテンに選出されました。

第92代内閣総理大臣・麻生太郎

首相官邸HPより

期間:2008年9月24日~2009年9月16日

麻生太郎内閣のポイント

麻生太郎内閣は、短期間での内閣総辞職が続いたため低支持率での船出となりました。

リーマンショックや大臣の不祥事などにより解散に追い込まれ、民主党に政権を奪われました。

麻生太郎が内閣総理大臣へ就任するまで

福田康夫内閣が支持率低迷に伴い突如辞任したことで、自民党総裁選が行われました。
出馬したのは石原伸晃、小池百合子、麻生太郎、石破茂、与謝野馨の5人でしたが、圧倒的得票を得て麻生太郎が勝利、9月24日に内閣総理大臣へ就任しました。

麻生内閣の政策

2008年のリーマンショック・金融危機に際し大型補正予算を組み、定額給付金やエコカー減税、家電エコポイント制度などを導入しました

東京都議会選挙で惨敗、衆議院解散へ

安倍晋三、福田康夫と1年未満での辞職が続いたため内閣発足当初から支持率は50%を切り、衆議院解散時期を伺う船出となりました。
しかしリーマンショックに対応するため、補正予算案成立を優先させ、解散総選挙は先送りする選択を取ります。

2009年2月に中川昭一金融大臣がG7の記者会見を酩酊状態で行い批判が殺到、支持率が10%台に落ち込みます。
経済政策により支持率が回復するものの、鳩山邦夫総務大臣の辞任・年金改ざん問題の批判などがあり、2009年7月には東京都議会選挙で自民党が惨敗、2009年7月21日に衆議院を解散となりました。

第93代内閣総理大臣・鳩山由紀夫

首相官邸HPより

期間:2009年9月16日~2010年6月8日

鳩山由紀夫内閣のポイント

第二次世界大戦後、はじめて野党が単独過半数で総選挙に勝利しました。

「事業仕分け」など内閣主導で予算編成を行うも、十分な財源確保には至りませんでした。

鳩山由紀夫が内閣総理大臣に就任するまで

2009年の8月の総選挙では、480議席中308議席を民主党が確保し圧勝しました。
日本で野党が単独過半数を得て勝利するのは第二次世界大戦後初であり、2009年の流行語年間大賞には「政権交代」が選ばれるほどの出来事となりました。

参議院で過半数確保のため、民主党は社民党・国民新党による連立内閣を樹立し、鳩山由紀夫が内閣総理大臣に就任しました。

鳩山内閣の政策

「脱官僚依存」を掲げ内閣主導での予算編成を行おうとした鳩山内閣は、国家予算の見直しを行う「事業仕分け」を公開で行いました

しかし費用削減では想定していたほどの効果はあげられず、選挙前のマニフェストにあった子ども手当、効率高校無償化、高速道路無料化などは修正を余儀なくされました。

鳩山内閣の辞任

沖縄県の普天間基地移設問題で鳩山首相の発言が二転三転し、また、社民党が基地の県外移設を主張して連立政権を離脱しました。

加えて、小沢幹事長の政治資金問題により内閣支持率は発足当初の70%から20%へ急落、鳩山首相は就任からわずか8カ月で退任を決定します。

第94代内閣総理大臣・菅直人

首相官邸HPより

期間:2010年6月8日~2011年9月2日

菅直人内閣のポイント

菅直人は消費税増税を含む税制改革を打ち出し、支持率を下げました

2009年の東日本大震災では多数の自衛隊を派遣し対応しましたが、事後処理で自民党との連立に失敗し、辞職へ追い込まれました。

菅直人が内閣総理大臣に就任するまで

内閣支持率の低下により、民主党代表選挙に勝利したのが菅直人でした。

記者会見の際に「最小不幸社会」を目指すと発言し、発足当初の内閣支持率は60%を超えていました。

菅直人内閣の政策

菅直人は内閣総理大臣に就任後、マニフェストには無かった消費税増税を含む税制改革を打ち出したため、参議院選挙で民主党は議席を大きく減らし過半数割れ、ねじれ国会となります。
菅首相の責を問う声があがりますが、菅首相は続投を表明、2010年9月に民主党代表選挙で小沢一郎との民主党代表選挙に勝利します。
一時的に内閣支持率は上昇しますが、2010年9月に発生した尖閣諸島での衝突事故での対応不備により支持率は再度低下しました。

また、在任中に発生した東日本大震災・福島第一原発事故の対応では、自衛隊の派遣規模を増大、10万人をこえる自衛隊を派遣しました。

自民党との連立失敗と退陣

菅直人内閣は、2011年3月の東日本大震災・福島第一原発事故対応のため自民党と連立を目指すも失敗におわり、6月に内閣不信任案が提出されました。
民主党内からも不信任案に同調する動きが出たため、震災対応の目途が付き次第退陣することとし不信任案を否決させます。

2011年度第二次補正予算案、再生可能エネルギー特別措置法案、特別公債法案を成立させ、9月2日に内閣総理大臣を辞職しました。

第95代内閣総理大臣・野田佳彦

首相官邸HPより

期間:2011年9月2日~2012年12月26日

野田佳彦内閣のポイント

野田佳彦内閣は東日本大震災からの復興と原発事故の収束を目指しました。

消費税の税率引き上げのため消費税法改正法を成立させましたが、そのため内閣支持率は低下、衆議院の解散を行いました。

野田佳彦が内閣総理大臣に就任するまで

菅直人が内閣総理大臣を辞任すると、野田佳彦が海江田万里を決選投票で破り、内閣総理大臣に指名されました。

野田内閣の政策

2011年10月に野田内閣は東日本大震災からの復興を目指し、復興事業を盛り込んだ第三次補正予算案を閣議決定、また同年12月には東日本大震災からの復興、実質成長率2%を目指す「日本再生の基本戦略」を閣議決定しました

翌年3月には財政再建・消費税増税に着手するため、消費税率5%から10%に引きあげることを含む社会保障・税一体改革関連法案を閣議決定し、国会へ提出しました。

党首討論での解散明言

消費税増税を含む関連法案に関して、2011年6月には民主党・自由民主党・公明党が法案を修正し合意に達しますが、修正内容について民主党内から批判が上がり、民主党からの離党者が相次ぐこととなりました。

同年8月に消費税増税法案を参議院で成立させますが、求心力を失う中で閣僚の相次ぐ不祥事が発覚し、支持率が20%以下に低下してしまいます。

11月に国会で行われた党首討論で、議員定数削減法案可決に協力するのであれば衆議院解散を行うと明言し、実際に11月16日に衆議院は解散、12月16日に衆議院議員総選挙が行われました。

第96・97・98代内閣総理大臣・安倍晋三

首相官邸HPより

期間:2012年4月5日~現在

安倍晋三内閣のポイント

現在の内閣総理大臣です

安倍晋三(第二次)が内閣総理大臣に就任するまで

民主党政権への支持率が低下する中、2012年12月に行われた第46回衆議院選挙では改選80議席に対し、自由民主党が294議席を獲得する圧勝となり、自民党総裁の安倍晋三が内閣総理大臣に選出されました。

安倍晋三内閣の政策・功績

安倍首相はデフレ経済の脱却を目標に、「大胆な金融緩和・機動的な財政出動・民間投資を喚起する成長戦略」を三本の矢とする経済対策を行い、これらの経済対策はアベノミクスと呼ばれ、2013年の流行語大賞トップテンに選出されました。

アベノミクスは株価上昇や失業率低下などに寄与しましたが、2014年に消費税率が8%、2019年には10%へ上昇するなど、可処分所得が上昇していないことによりアベノミクスへの評価は2分しています。

2013年の参議院選挙におても自民・公明党が議席を伸ばし、連立で過半数を奪取することに成功し、衆議院と参議院で第一党が異なる「ねじれ国会」が解消されました。

また2013年9月には2020年のオリンピック開催地が東京へ決定します。

2016年の参議院選挙でも議席を伸ばし、2017年の衆議院選挙でも選挙前と同じ284議席を獲得するなど、好調な経済を背景とした高い支持率を維持し、長期政権となっています。

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